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クライアントの三清山賀製薬は日本有数の製薬会社である。中堅どころの広告代理店『爽』にとって、売上といい仕事の規模といい最上位に位置する企業の一つ。
三清山賀製薬との付き合いは社長の安斉爽が地元群馬の大学生で、三清山賀製薬の配送のアルバイトをしていた頃にさかのぼる。現在の三清山賀製薬の山賀社長も、実家の手伝いと称してアルバイトをしていた。毎日顔を合わせるうちに意気投合し、一緒にバンドをやってみたり飲み歩いたり、遊びにいったり、時には羽目を外し、時には励まし合いながらお互いを切磋琢磨するのにいい関係を築いた。
卒業後安斉は東京に出て映像業界で働き、山賀は父親の会社──三清山賀製薬に入社した。
その後十年程経って安斉がディレクターとして一本立ちしたころに、三清山賀製薬の前社長が倒れ息子が社長になり、昔のよしみで手伝って欲しいと連絡があったのだ。
その頃三清山賀製薬は、医療機関向けだけだった製薬事業を拡大し、家庭向けの常備薬から、マスクやサポーター、スポーツドリンクといった分野にまで手を出そうと計画していた。
相談を受けた安斉社長は一念発起し、古くからの良き友を助けるべく広告代理店『爽』を立ち上げ、ブランドイメージから、広告、商品開発まで幅広いサポート体制をとった。その助けもあって三清山賀製薬は国民に広く名前が知れ渡るようになり、日本有数の製薬会社に成り上がった。そのプロジェクトの中心的な役割を果たしてきたのが、諸岡誠である。
そして今、永澤剛にその遺伝子を引き継ごうとしていた。
第一会議室には長テーブルが枡形に並べられ、三十程のパイプ椅子が置かれている。諸岡誠と永澤剛が座っているのは、窓際中央のテーブルだ。
二人の視線の先にはテキパキ動くプロダクションマネジャーの松永由紀の姿があった。
プロダクションマネジャーは制作を円滑に進める為に様々な事をしている。プロデューサーやディレクターのアシスタントをしたり、各種の連絡役だったり、ミーティングの資料を作ったり、現場を仕切る事もある。こまごまとした雑用の多い仕事だ。
今は、ミーティングを前に長テーブルの上に人数分の資料を並べていた 。