3.
以上の経緯を経て、俺は松浦に包丁を突きつけられている現在の状態に至ったのである。
しかし、改めて思い返して見ても、俺が松浦に殺されかけている理由がどうしても解らない。
確かに俺は松浦がボロアパートに住んでいることを知ってしまい、彼女とヤクザが何かしらの関係にあることを知った。
それは松浦に取っては決して知られてはならない秘密かもしれないが、それだけでクラスメイトに包丁を突きつけるようなことをするのだろうか。
「私は絶対にこの高校生活を最後まで満喫してみせるわ。 そのためにはこの秘密を…」
松浦は相変わらず尋常でない様子で、要領を得ない言葉を次々に俺へ投げかけてくる。
その様子を見て俺は、今の松浦に常識的な判断を求めることが間違っていることに気付かされた。
狂人には常人の理屈が通じないと言う事実を俺は今、身をもって体験させられているのだ。
俺と松浦の間である種の膠着状態となり、現状を脱する手段が思いつかない俺は内心で諦めかけていた。
そして、このままの包丁の餌食になってしまうかと諦めかけていたその時…、奇跡が起きた。
「あれ、鍵が開いている。 お姉ちゃん、もしかして帰ってきているの?」
「砂姫!?」
膠着している状況を打破するために、神が遣わした女神が現れたのだ。
玄関の扉が開く音と共に、松浦の言葉からして彼女の妹らしい声が聞こえて来る。
松浦は妹の存在に明らかに動揺をしており、俺から視線を逸らして茶の間の方に顔を向けた。
「っ、今だ!!」
「きゃっ!?」
松浦が注意を逸らしたチャンスを逃がさす、俺は松浦を押し退けてこの状況からの脱出を図る。
不意打ちを受けたことであっさり俺の拘束を外した松浦は、可愛らしい悲鳴をあげながら包丁を落としてその場に尻餅を着いた。
俺は畳みの上に座り込む松浦の脇を抜けて、狭い六畳間を抜けて急いで茶の間の扉を開けた。
「へっ、誰ですか?」
「お、お邪魔しましたーー!!」
茶の間から脱出を果たした俺は、玄関前でさきほど俺を救ってくれた女神である松浦の妹の鉢合わせる。
多分、小学校高学年くらいの少女は、予想外の闖入者の存在に驚きの表情を見せていた。
俺は今度は松浦の妹の脇を抜け、おざなりな別れの言葉とともにこのアパートを脱出することに成功する。
そして俺は決して後ろを振り向かないようにしながら、アパートの脇に停めていた愛車に飛び乗って危険地帯から全速力で離れるのだった。
あの衝撃の展開から一夜が明け、非常に残念なことに今日は学校がある平日であった。
学校で松浦と顔を合わせることに恐怖した俺は当初、仮病を使って学校を休もうと試みてみるが、母にあっさりと嘘を見破られていた。
クラスメイトの女子に殺されかけたと言う訳にもいかず、俺は母に尻を叩かれるように強制的に学校という死地に向かわせらることとなる。
俺は憂鬱な気分のまま愛車の自転車を漕ぎ続け、特にトラブルも無く学校まで辿り着いてしまう。
そして、教室に入った俺は真っ先にクラスの中を見渡し、危険人物である松浦の存在を探し始めたのだ。
「でさ、昨日はテレビで…」
朝のHRを間近に控えていた教室では、既に殆どのクラスメイトが揃っていた。
クラスメイトたちは各々、仲のいい友人たちと雑談にふけながら朝の自由時間を楽しんでいた。
その中で松浦の姿はすぐに見付ける事が出来た、彼女は自分の席で他の例に漏れず女友達と姦しく世間話しているようだ。
俺は松浦に気付かれないように、恐る恐る自分の席に向かった。
「おう、山下! おはよう、どうした、顔が暗いぞ!!」
「う、うわっ!? 」
どうにか松浦に気付かれず席に着くことが出来て一息ついた瞬間、俺の努力を無視するように友人が元気よく朝の挨拶を投げかけてきたのだ。
野球部所属で普段から声が大きい彼の野太い声は、残念なことに教室中に響き渡る。
案の定、松浦は野球部の声で俺が教室に入ったことに気付き、さり気なくこちらに視線を向けてきた。
「!?」
窓際の席に位置している松浦と、通路側の端に位置する俺の席は離れている。
これだけ距離が離れていれば偶然目線が合うということは考え難く、松浦は明らかに俺を見ているのだろう。
松浦と目線が会った瞬間、俺は昨日の記憶を思い出し此処でまた襲われるのかと思わず身構えてしまう。
しかし、松浦はすぐに視線を逸らして友達とのお喋りに戻った、まるで昨日のことなど忘れてしまったかのようにである。
その後、俺は何時命を狙われるのか心配で松浦の一挙手一投足を絶えず監視を試みたが、彼女がおかしな行動を取る様子は無い。
そのまま昼休みまで、松浦が俺に接触することは無かった。
昼休みになり、学生たちが空腹を満たすために昼食に取り掛かり始めた。
ここまで何も起きなかった事に安心した俺は少しばかり気が楽になり、暢気に昼食の飲み物を買いに自販機に向かっていた。
自販機は一階の購買付近にしか置かれていないため、四階にクラスがある一学年に取っては飲み物を買いに行くのも一苦労である。
「…山下くん、ちょっと着いて来て。 二人っきりで話したことがあるの」
「えぇぇぇっ!?」
しかし、すぐに俺の楽観はすぐに間違いだったと気付かされた。
ペットボトルのコーヒーを購入して教室に戻ろうとした時、一階の廊下で俺は松浦から呼び止められてしまったのだ。
松浦の声を聞いた俺は昨日の状況が脳内にフラッシュバックしてしまい、情けない悲鳴をあげてしまった。
俺は思わず恥じも外聞も捨てて松浦から逃げ出そうとするが、その前に彼女の行動が一歩早かった。
松浦は逃げ腰の俺の腕を掴み、有無を言わさず何処かへと連れて行くのだった。
成されるがままに人気の無い校舎裏まで連れて来られた俺は、昨日のように松浦と二人っきりの状況になっていた。
余り日の当たらない校舎裏はじめじめとした空気が漂っており、誰もこのような不快な場所に現れる物は居ないのだ。
校舎裏の中で幾分か日の光が感じられる古い倉庫の前で、俺は松浦と向かい合ってに立っている。
この状況はよく考えたら非常にまずいのでは無いか、この立地ではまた刃物で襲われた場合に誰の助けも期待できなさそうだ。
俺は頭の中で万が一の場合の逃走ルートを模索しながら、俺の正面で黙りこくっている松浦の様子を伺っていた。
「…昨日はごめんなさい」
「へっ…」
だが松浦はまた刃物で遅いかかるどころか、逆に昨日の件の謝罪をしてきたのだった。
思わぬ松浦の言葉に、俺は間抜けな言葉を漏らしてしまう。
「私、ちょっと混乱してたみたいであんな危ない真似をしちゃって…、昨日は怪我とかは無かったわよね?」
「ああ、とりあえず怪我は無かったけど…」
どうやら昨日の松浦は異常な状態だったらしい、少なくとも今の落ち着いた様子の松浦なら包丁を持ち出したりしないだろう。
今の松浦の目から昨日の狂気は宿っておらず、この様子ならいきなり俺を襲うことも無いだろう。
しかし、人に刃物を突きつけるほど混乱するとは、余ほど昨日のヤクザ風の男やボロアパートの件は知られたくなかった事なのだろうか。
「松浦、昨日の件は一体? いや、話したくないことなら無理して言わなくてもいいんだけど…」
「やっぱり気になるわよね…。
仕方ないわね、流石にあんな目に合わせておいて事情説明もなしって訳にもいかないか…」
そして長い話になるから説明は放課後でお願いと言われ、それを了承した俺たちは一旦教室に戻ることとなった。
松浦の話は気になるが、今は昼食を優先しなければならない。
何しろ昼休み明けにある5時間目の授業は体育なのだ、空腹のまま運動するなんて真っ平ゴメンである。
教室に戻った俺は残り少ない昼休みの時間内に昼食を終えるため、カバンから母の手作り弁当を広げた。