1.
「山下君、私はただ普通の女子高生になりたかっただけなのよ…」
耳障りな荒い息使いが聞こえる…、何だ、この状況はなんなんだ…。
この五月蝿いほど聞こえてくる吐息がクラスメイトの物か、それとも俺の物か区別が付かないほど俺は混乱していた。
何しろ数十センチほど離れた場所に、一部の男子に評判だった女の子の美しい顔が存在するのだ。
彼女は茶髪に染めた髪を肩口に掛かる程度に短く揃え、教師に注意されない程度の軽い化粧を顔に施している。
その瞳は真っ直ぐに俺の顔を捉えており、彼女の瞳の中に俺の唖然とした表情が映し出されていた。
生まれてこの方彼女が一度も出来たことが無い俺に取っては、今の状況は現実を疑うほどの衝撃的な自体なのである。
何故、クラスメイトがこんなに間近に居るかと言えば、その答えは今の俺たちが取っている姿勢にがあった。
実は彼女は今、床に仰向けに倒れている俺の腹の上に座り込んだ状態で、俺の顔をのぞき込んでいるのだ。
「そう、私は一度しかない女子高生を思いっきり満喫したいのよ。
そのためにはどんな努力も惜しむつもりは無いわ…」
狭い六畳間の和室で同世代の女の子に圧し掛かられている、それだけ聞けば男子垂涎の美味しい場面と言えるかもしれない。
その子が明らかに常軌を逸した表情で、俺に包丁を突きつけていなければの話では有るだろうが…。
彼女は包丁を俺の頭の真横に突き立てながら、狂気すら感じさせる笑みを浮かべている。
そして彼女はまるで壊れたラジオのように、俺の反応を無視して延々と喋り続けているのだ。
俺に腹の上に馬乗りしている彼女は細身の体付きをしており、正直言って余り重さをを感じなかった。
仮にも一般的な高校生男子である俺の力ならば、労せずに彼女を払いのけてこの窮地を脱することが出来たかもしれない。
しかし、俺は彼女の狂気に気圧されてしまい、何も抵抗も出来ずにただじっと彼女の話に耳を傾けることしか出来なかった。
「だから私の秘密は学校の人たちには絶対知られちゃいけないのよ、解るでしょう?
だって普通の女子高生がこんな秘密を持っている筈無いもの…」
そもそも普通の女子高生が包丁を持ち出すかと、俺は思わず反論したくなったが命は惜しいので此処はぐっと堪える。
今の彼女は明らかにおかしくなっている、此処で部屋に藪を突いてもろくな事にならないだろう。
彼女が落ち着くまで待ちの姿勢を貫くことを決めた俺は、彼女の支離滅裂気味な話に耳を傾ける。
どうしてこんな危機的状況に陥ってしまったのだろうか、俺は彼女の話を聞きながら現実逃避気味に現在に至るまでの記憶を遡っていた。
今更であるが自己紹介をしよう。
俺の名前は山下 大輝、今年から地元の高校に通うことになったピカピカの高校生である。
それは6月に入り、そろそろ高校生活に慣れてきた頃のことだった。
俺は週二回の部活に参加するために階段を上り、部室として使われている旧校舎の4階に化学準備室に来ていた。
慣れてきたとは言え、俺は旧校舎の部室に辿り着くまでには毎回苦労させられていた。
この部室がある旧校舎と、普段生徒が使用する新校舎は一階にある連絡通路でしか繋がっていない。
そのため新校舎の4階に教室を持っている高校一年生の俺は、この部室に辿り着くまでに4階分の階段を1往復分上り下りしなければならないのだ。
俺は衣替えしたばかりの夏服のシャツが軽く汗ばむ嫌な感触を覚えながら、4階の奥にある部室まで歩いていった。
「ちわーす」
部室の扉を開けると、室内からに化学薬品の独特の匂いが鼻についてくる。
未だにこの匂いに慣れない俺は思わず顔を顰めながら、俺は狭い化学準備室の室内を見回した。
相変わらず部室には部長以外の人影は無く、俺は部長に挨拶をしながら何時も使っている机の上に荷物を置こうとしていた。
その時に俺は、机の足元に何かが落ちていることに気付いたのだ。
「あれ、此処に財布が落ちてますよ。 もしや部長のですか?」
机の足元に落ちていた物は、恐らく女物と思われる赤色の財布だった。
手を伸ばしてそれを拾い上げた俺は、持ち主の第一候補と目した部長に声を掛ける。
俺より先に部室に来ていた我が化学部の部長は、こちらが掲げた財布を一瞥した。
「違うわよ。 それは多分、松浦さんの」
「えっ、松浦?」
しかし、俺の予想した第一候補者は即座に否定の言葉を述べ、代わりに持ち主の第二候補をあげてくれた。
松浦 陽子、俺と同じクラスに所属するクラスメイトであり、俺と同じように化学部に所属している部員仲間でもある。
部長の話が本当ならば、この財布は俺のクラスメイトの物なのだろう。
「へー、あいつが部室に来たんですか、珍しいな…」
「そんな言い方は無いでしょう。 松浦陽子さんはあなたと同じ立派な我が化学部の正式な部員よ。
まあ殆ど部活に顔を出していない幽霊部員とかしているのは否定しないけどね…」
こちらの言い草に対して否定と肯定を混ぜたような返しをする部長は、先ほどから読んでいた何かの化学雑誌を机に置いてこちらの視線に寄せる。
部長の目線が俺の顔を捉えお互いの目線が合い、俺は内心で一瞬の緊張を覚える。
黒髪のロングにスレンダーな体系、一昔前のお嬢様のようなイメージを地でいく部長の整った顔を正面から見るのは、中学時代に女っ気が全く無かった自分にとってはハードルが高いのだ。
部長はこちらの変化などに気付いた様子も無く、淡々と財布の持ち主と思われる件の松浦のことを話し始めた。
「彼女は前期の実験スケジュールを提出に来たのよ、今週中に前期のスケジュールを提出するように言ってあったでしょう?
それで丁度そこの机でカバンからプリントを取り出したんだけど、慌てていたのかカバンの中身を零してしまったのよ。」
彼女はすぐにカバンの中身を回収して、用事があるから今日はこれで帰ると言ってそのまま慌しく出て行ったわ」
「そっそかしいなー、あいつ」
どうやらこの財布は、俺と入れ替わりに来たらしい松浦の物に間違い無いだろう。
しかし、財布の持ち主は解ったものの、部長の話では松浦は既に帰ってしまったらしい。
俺はこの財布を、一体どのように扱えばいいのだろうか。
「この財布は明日、クラスで返せばいいですかね。
あいつとは同じクラスですから、どうせ明日には嫌でも顔を合わせますし…」
「でもお財布でしょう。 彼女の方でも探しているかもしれないし、今日中に返してあげた方がいいんじゃ無い。
山下くんは松浦さんの連絡先を知らないのかしら?」
「知りませんよ。 あいつとは同じ部活で同じクラスってだけの関係で、メアドを交換するほどの仲では有りませんからね…」
松浦というクラスメイトは所謂ギャル系のグループに所属する、今時の女子高生をそのままイメージした感じの奴なのだ。
クラスの男連中の間でそこそこ評判になる程度の容姿を持ち、毎日教室でクラスの女子と姦しくお喋りをしている
繰り返すようだが中学から女っ気がなく、ずっと男同士でつるんでいた自分にとっては、正直近寄りがたい存在である。
実際、過去に彼女が同じ化学部だと知った時も、大層驚いた覚えがあると記憶している。
「そう、困ったわね…。 山下君、ちょっとお財布を貸してくれる」
「? いいですよ」
部長の指示に従い、言われるがまま赤い財布を差し出す。
財布を受け取った部長は暫く財布を眺めた後、おもむろに財布の中を開いてしまう。
「ぶ、部長!? 勝手に人の財布を開けたらまずいんじゃ…」
「仕方ないでしょう、このお財布以外に情報が何も無いんだから。
ああ、安心して。 後で松浦さんに財布の中を勝手に見たことについて何か言われたら、主犯は私って説明してことにしていいわ」
確かに幾ら財布の外を眺めていても決して松浦の情報を得られないため、部長の行動はある意味で正解だろう。
流石に女の子のお財布の中身を男の子が覗くのは問題あるわねと独り言ち、部長は財布の調査を再開する。
プライバシーの観点からか俺から見えないように財布の中を漁り出した部長の姿を、俺は焼餅しながら見守っていた。
「あら、これは…。 山下君、これは今日中に返さないとまずそうね」
「い、一体何が入っていたんですか、部長?」
「まず第一にお財布に入れるべき品物…、つまりお金よ。 それも結構な大金が入っているわ」
「大金ですか…、どうして学校にそんな物が入った財布を持ってきたのか…」
部長の反応を見る限り、高校生が持つには相応しくないほどの大金が財布に入っているようだ。
そういえば財布を触った感触から結構な札が入っていることは気付いたが、もしかしてあれが全て1万円札だったのだろうか。
松浦の事情は解らないが、何の理由も無しに大金入りの財布を学校に持ってくる筈も無いだろう。
用事があると言って急いで帰ったことから、今日はこの財布の中身を使う機会があったのかもしれない。
もし仮に俺の予想が正しければ、財布を落としたことに気づいたあいつは非常に困った状況に陥っている筈だ。
「お財布の中に住所が解る物があったから、これで松浦さんの家の場所も判明したわ。
悪いんだけど山下君、この財布を松浦さんの家に届けてくれない? 」
「えー、俺が届けるんですか!?」
俺が松浦の状況を想像している間に財布の調査を終えた部長は、財布から何かの住所の書かれた何かの会員カードを見つけたようだ。
松浦の財布を彼女の自宅に届ける役目を命じられた俺は、当然のように抗議の声をあげる。
「二人で行くのも効率が悪いでしょう、それに一人は此処に残っておいた方がいいもの。
もしかしたらら松浦さんがお財布のことに気付いて此処に戻ってくるかもしれなし…」
「そ、それはそうですが…」
理路整然とした部長の言葉に、余り成績に自身の無い俺には反論を見付けることが出来ない。
こうして俺はクラスメイトの女子の家に訪問すると言う、極めて難易度の高いミッションを任される事になるのだった。