墜ちたる神子 2
2
ボクは椅子に座り、メイドにブーツを脱がせてもらった。
動きやすさを損なわない、ボクの足に合わせたブーツだ。
何年も前に、じいやが紹介してくれた職人に作らせたお気に入り。
下手なブーツでは、ボクにとって心臓よりも大切な足を、押さえ込んでおくことができない。
「ああ、開放感」
ボクは素足で窓辺へと走った。
外は既に暗く、約束の時間には月も沈んでいるだろう。
街の歓楽街は明るく、闇の深さが映える。
暗い夜の闇。
ボクの大好きで大嫌いな夜。
好きでも嫌いでもボクの時間。
ボクのペット達は、みんな夜が好きだから。
「ねえ、ベル」
ボクはブーツを脱がせてくれた、脱がせてくれたメイドに声を掛けた。
猫を思わせる、綺麗な女の子だ。
「私はベティです」
「ボクがそうだと言ったらそうなの」
「かしこまりました」
彼女は大人しく頷く。
「そうそう、いい子だね。
ボクがイヌだと言えば、それが何であってもイヌなの。ボクは絶対なんだ」
くすくすくすくすと、喉から漏れ出た。
二人きりの部屋に、溶けるように消える。
ボクは窓から離れて、ベルに近付いた。
ゆらゆら揺れる、蝋燭の光が彼女の頬を照らす。
場所によっては幻想的で、この場合はきっと不気味な光だろう。
彼女は緊張しているらしく、笑顔がとても硬かった。
若くて可愛い新人のメイドさんが、自分よりも年下に見える、背徳の王などと揶揄される者の部屋にいる。
その意味を推し量っているのだろう。
愚かで、だからこそ可愛らしい。
「何もしないから緊張しないで、猫ちゃん」
近づき、彼女のあごに手を添えて言うと、その目が揺らぐ。
「君はここに来てどれぐらい?」
「一ヶ月になります」
「慣れた?」
「はい」
「誰の手引きでここに?」
「叔母の紹介です」
いい子だ。目が揺らいだのは、触れたときだけ。
「君は野良猫ちゃんだね」
飼い猫ではない。餌を貰っているだけのノラ猫だ。
「のら……?」
「やっぱりノラ猫のノラにしようか? 君の名前」
彼女は目を見開いた。
「何か不満?」
「いいえ」
「だそうだ。君たちは殺気立たなくても良いよ」
ボクは天井に向かって言う。
コン、と音が鳴った天井を見上げ、彼女は気味悪がった。
ここの使用人がやめていくのはこの不気味さに耐えられないから。
耐えられそうな使用人が来ないのは、ここは何かあると気付くから。
「天井には、色々住み着いてるんだ。ボクには噛みつかない可愛いペットたち。
でもボク以外には噛みつくよ。ボクが噛まないように言っているから噛まないけど、ボクに噛みつくよその獣には容赦なく噛みつく。
ボクが噛まないように指示するのは、ボクに忠実なペットにだけ。
でも君はノラだから、噛みつかなければ誰も噛まないよ。ボクらは良識的だから。
だから安心おし、ベル」
顔を強張らせながらも、本名を呼ばれて頷いた。
初々しい。初々しいはずがない少女が、初々しい反応を見せるのが小気味よかった。
「可愛いね。食べてしまおうか」
「ご、ご冗談を」
「ボクに人食の噂があるのは知っているけど、それはデタラメだよ」
彼女は少しほっとしたような顔をする。
人の肉より、家畜の肉の方が美味しいに決まっている。
「ボクのペットが食べるんだ」
彼女の顔がはっきりと引きつり、ボクは満足した。
道理を知らぬ野良猫を調教するのは楽しい。
忠誠心など持ったことがない、ただ自分のために動いている野良猫。
それを手折ることが楽しい。
「ボクは生まれながらにしてこんな生活はしていなかったよ。ボクにだって両親がいたからね」
彼女は黙ってねボクの足下を見た。
「両親はこの街の支配者で、ボクをとても愛してくれたんだ。
愛されていたから、ボクは今もここにいる」
正確に言えば、ボクの左足を見ている。
そこには淡い色合いの、入れ墨のような模様がある。
「ボクの両親はボクを守って死んだんだ」
ベルは痛ましげな目をしていた。
ボクが子供に見えるから。
「両親はこの街を愛していた。両親が愛したこの街はボクを守り、育んでくれた。
だからボクはここが好きで、街の皆は庇護すべき大切な存在なんだ」
世界で唯一、無条件でボクが大切にする人達だ。
「だけどボクがいると、彼らを傷つけようとする人達が現れるんだ。
とても心外だよね」
ボクは椅子に座り、足をぶらぶらさせた。
「だから、ボクはペットをたくさん集めたんだ。
使い物になるかどうか分からないのから、とっても便利な子まで、色々と」
足下で、見えない何かが渦巻いて、カーペットの長い毛足を揺らす。
「ねぇ、君を良いところに連れて行ってあげようか?」
ボクはベルを見上げて尋ねた。
「良いところですか?」
「うん。とってもいい所」
ボクは立ち上がり、くすくす笑いながらその手を取って、有無を言わせずに歩き出す。
「賢い君なら、きっと理解してくれるはずだから」
ベルの目が揺れた。
目というのは、隠そうと思っても感情が表れる。
目が泳ぐことを防ぐのは簡単だけど、恐怖で瞳孔が開くのは防げない。
「ボクは野良猫は好きなんだ」
僕の言う好きは、普通の人と同じではないけれど。
ボクがこうするのは、ボクの楽しみであり生き甲斐であり、ボクが生きている証明でもある。
ボクであるからこそ、ボクらしく行動する。
他者を支配するために。