見知らぬ土地―6
――何故、泣かないの?
ぼんやりとした意識の中でゆっくりと誰かの声を聞いた。
それは、自分がきっとおかしいからだ、と答えた。
慣れているから。自分は、幸せを諦めてしまったから。何が起きても、未来を危惧してしまう事を止めてしまったから。
母と、仲が悪かった。母が好きで、好きで。ずっと母の為にと努力したつもりだったのだが、結局妹の舞と「同じ」にすらなる事はなかった。
これ以上居場所のないそこにいるのが嫌で、家を飛び出して。フリーターで生活を繋いで、将来はいつか、友人から聞くような暖かい家庭を持つことを夢に見て、夢を持ち、何とか生活していた私を襲ったのは病魔だった。原因不明の病は、僅かだが熱が下がらないという微妙な症状を続け私の身体から体力を奪い、生活力をゆっくりと奪っていく。厳しい母に友をも否定され、たった一人で生きてきた私はその中でとうとう、将来幸せな家庭を持つという最大の夢すら諦め始めてしまった。
諦め。それはいけない事だと頭ではわかっているのだが、身体がどうしてもついていかず心も納得はしなかった。その状況で必死に、なんとか一人でも暮らせるようにという事だけ考えて生きていた私は、何が起きても、もういいや。と思っていたのかもしれない。
夢を抱いていた時は、あんなにも未来に期待して、生きたいと強く願い続けていた筈なのに。
明るい……。
うっすらと視界に光が入り込み、私はゆっくりと瞼を押し上げた。揺らぐ視界に入り込む光に、今日はバイトの日だったか、と考えた私は……自分を包み込む温もりに気がついてびくりと身体を奮わせた。
「……起きました?」
「……、あの、えっと……おはようございます……っ」
「おはようございます。そんなに怖がらないで」
そうだ。私、変なところにきちゃったんだっけ。しかも見ず知らずの男の人の腕の中で寝ちゃうし、うわぁあっ、何かいろいろダメでしょ自分!
カイトさんは慌てる私を見ながらふっと笑ってゆっくりと身体を起こす。離れた温もりに身震いし、身体を縮めれば、同じ体勢で固まって眠っていたせいか酷く体が痛んだので、仕方なくゆっくりと身体を起こした。
絶対ありえない。初対面の男の人と寝るなんて。私、さいあくだ……。
昨日は酷く疲れて眠かった気がする。そのせいだろうか。でも、神経図太すぎる。そんな事を考えていたせいかころころと表情を変える私を見て、カイトさんは少しだけ安心したように微笑んだ。
「……大丈夫、ですか?」
「え?」
カイトさんの手がゆっくりと伸び、私の頬に指先が触れる。
「昨日はすみませんでした。……怖くないはずは、ないのに」
「え? ……まさか私、寝言で何か言ってました?」
「……いえ、特には。食事、できそうですか?」
「え、えっと、はい。あ、できれば、お水いただけますか? 薬飲まないと……ああ、昨日、飲んでいないや」
カイトさんは立ち上がり荷物を置いている一角に移動しながら、少し心配そうに振り返る。
「どこか、体調が優れないのですか?」
「あ、その、持病で。微熱が、下がらなくて。そのせいでいろいろ……昨日もそのせいで随分寒かったんだと思います。すみません、迷惑かけて」
「……いえ」
カイトさんは少し何かを後悔するような表情をして立ち止まった後、不安そうに顔をあげた。
「薬は、熱を下げるものですか?」
「いえ、熱は微熱で、たいした事なくて薬使えないんです。飲むのはその……吐き気止めといいますか」
「すみません。辛そうですね。実は、ここには簡単なものしかなくて。食べれそうですか?」
そういってカイトさんは荷物からパンを取り出し、私に見せた。それは確かに柔らかそうには見えず、日持ちするジャム瓶が一つあるだけだ。
「大丈夫です。すみません」
食べ物に何か言うつもりはない。いきなりこの世界にきた私にとって、守ってくれる人がいて食べ物があるなんて、幸福な事だ。
「いえ。食べたら、出発しようと思うんですが」
「はい。お願いします」
私はパンを受け取りながら、自分の体力で大丈夫だろうか、とベッドの脇にある小さな窓の外を見つめた。天気はおそらく、悪くはない。
「ここから四時間程歩かなければならないと思います。休憩を挟みながら行きましょう」
「……すみま、せん」
自分は明らかに足手まといになるだろうと考えて、私は俯いた。でも、ここで彼においていかれては私はどうする事もできない。そこまで考えて、どうして彼はここまで自分に優しくしてくれるのだろうか、と首を傾げた。いくら『占い』とやらで彼が異世界からの人物を探していたとしても、彼の行動にはとにかく……優しさが感じられる。優しくされるのに、慣れていなかった。
「いえ、気にしないで下さい。一晩あなたで暖をとらせてもらいましたので、お礼にとでも」
カイトさんはそういって、にっこりと……少しいたずらっ子のように笑った。少し楽しそうな声に、私の顔はおそらくすぐに真っ赤になっただろう。
「わ、私……っ」
「すみません、意地悪が過ぎました」
くすくすと楽しそうに笑うカイトさんの手が私の頭を撫で、子供っぽかっただろうかと私は俯いて少し唇を尖らせた。そんな姿が、子供っぽいとは本人は気づかないが。
ぱさぱさとしたパンをジャムはつけずに食べ終え、水を貰い薬を飲んだ私は何やら荷物を漁っていたカイトさんに、布を手渡される。広げてみるとそれは服で、厚めの布で出来ているズボンと、首まで覆う襟に長袖の上着は、どう見ても男物だ。大きい帽子も一つ渡される。
「服が、それしかなくて。今の服ですと、日は昇りましたが寒いですね。それと……もしかしたら目立つかもしれませんので。男物ですが、そちらの方が王都に入った時も目立たないと思います」
申し訳なさそうにカイトさんがそう言って、出ていますね、と小屋の扉を開けて外に出た。
どうしようか、と考えて、今の自分の服はきっとこの世界では目立つ格好なのだろうと思い至った私は、それは嫌だとすぐに着替え始める。だって目立つのは好きじゃないし……。
しかし、身長も低く女の私の身体は服の中で泳ぎ、姿見の鏡はないがおそらくずいぶんと変な格好をしているだろう。
なんとかズボンはベルトで絞り上げ、大きな上着はどうしようもないのでそのままにして諦めて、慣れない金の長い髪を高いところで結い上げ帽子で隠す。どうせなら、格好だけでもぱっと見男のほうがマシだ。最後に来ていた服を丁寧に畳み鞄に入れると扉をゆっくり開けた。外で待っていたカイトさんが、少し驚いたように目を見開く。
「すみません、そこまでサイズが合わないとは思いませんでした」
「えと、あの、ごめんなさい」
これじゃ元の服装より目立つんじゃないかな。居た堪れなくなって俯けば、上から少しだけ笑い声。
「王都についたら、服を揃えましょうね」
「……あ、の。私、お金……これ、使えませんよね?」
鞄から取り出した財布の中のお札を一枚取り出すが、カイトさんは首を傾げる。
取り出したのは、一万円札。元の世界であればこれである程度できたのかもしれないのだが……。
「それが……あなたの世界のお金、ですか」
「やっぱり使えないんですね」
どうしよう、と項垂れた。これでは、王都についてもどうしようもない。そもそもこれからどうなるんだろう。
「まぁ、いろいろな事を含めて話し合いましょう。安心して下さい。護りますから」
「……、何で、ですか?」
「……? いけませんか?」
しばらく思案するように顎に手を当てていたカイトさんは、ふといきなり少し困ったように笑い、下心はありませんよ? と言った。
「そ、そんなつもりじゃ」
カイトさんはまだくすくすと笑っている。悪い事を言ったと少し俯けば、ふわりと頭にのるのは彼の手。
「気になさらないで下さい。いきなり何もわからないあなたを放っておいたりはしませんし、好きでやっている事です。……子供は甘えていいんですよ」
「こ、子供?」
「ああ、そういえば……私は23歳なのですが、あなたはおいくつですか。13、4くらいでしょうか」
「……19、なんですけど」
「……ええっ?」
しばらく目を見開いて呆然と私を見ていたカイトさんは、我に返るとすぐに頭を抱えた。小さな声で、「すみません」と聞こえる。
「……大変失礼な事をしてしまいましたね、昨日も含めて」
「わ、若く見られるのは、慣れてます……」
何か、昨日からの態度に妙に納得がいった気がする……
私はそう思いながら「昨日」という単語についてふと考え、昨晩の事だと思い至り顔を真っ赤にした私の頭上で、もう一度「すみません」と声が聞こえた。
カイトさんはどうするべきかとしばらく様子を見ていたが、行きましょうか、と気を取り直したように微笑み、私は一度だけ小屋を振り返りすぐ歩き出した彼の後を追いかけた。