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土塗れ令嬢は、麗しい公爵令息からの歪んだ愛を知らず

掲載日:2026/04/20

 シェラトン侯爵家は、王都から遠く離れた領地を任されている。グーゲルダッツ領は炭鉱の地として有名で、王都に行くには山を避けて移動するため、半月を要する。

 侯爵家のただ一人の令嬢、セリーナ・シェラトンは遠距離を理由に、20歳になっても未だにデビュタントを飾っていない。王国主催の舞踏会に招待されても、頑なに行こうとしなかった。


 そして、王国内に多大な影響力を持つ、クロムナード公爵家の婚姻の打診も断ろうとしていた。


 セリーナの父、シェラトン侯爵家当主ザルフィスは、頭を抱えた。


「セリーナ、なぜ断るのだ。お前の気持ちは理解してやりたいが、私にも立場というものがある。我儘は聞いてやれないぞ」


 呆れた様子の父ザルフィスに、セリーナは訴える。


「私は、この地で暮らして行きたいのです。クロムナード公爵家に嫁いでしまえば、里帰りできるのは数年に一度あるかないか分かりません。お父様どうか、婿を取ってくださいませんか?」


 セリーナは、「それか…」と勿体ぶって続ける。


「…ドナードを私の夫にしてください!彼ならこの領地のことを誰よりも理解していますし、更に発展してくれることでしょう…お願いします、お父様…」


 頭を下げて懇願してくるセリーナに、ザルフィスは呆れて天を見上げた。


 ドナードは、シェラトン侯爵家に執事として古くから使えていた家系に生まれた。彼は幼い頃に両親を不慮の事故で亡くし、ドナードの父と主従関係かつ友人であったザルフィスにより、シェラトン家の養子として迎えられた。ドナードはメキメキと頭角を表し、現在執事見習いとして侯爵家に貢献してくれている。


 そんなドナードに、セリーナは長年片想いをしている。これは、屋敷に住むものなら誰でも知っている。

 幼い頃セリーナは、朝から晩まで二歳歳下のドナードの尻を追っかけ回していた。最近は慎んでいるようだが、それでも好意は隠しきれていない。


「…こればかりはお前の願いを叶えてやれない。それに、ドナードの意思もある。だから…」

「つまり、ドナードが承諾すればいいということですか?」


 セリーナは当主であるザルフィスの言葉を遮り、食い気味に質問する。


「…そうとは言っていない。セリーナ聞け。父はな、お前の幸せも考えて…」

「わたくし、ドナードに聞いて参ります!!」

「ま、待て……!」


 ザルフィスの制止も聞かず、セリーナは執務室から出て行ってしまった。彼女は人の話を聞かないところがある。

 ザルフィスは年々多くなる頭痛の種に、クラクラした。

 ただでさえ、この家は存続が危ういのだ。グーゲルダッツ領は、炭鉱の地として先先代の頃は公爵家にも匹敵するほど栄えていた。先代になって肝心の鉱石が獲れなくなり、領地の資産も人口も減少し現在に至る。

 近隣の貴族たちから支援を受けて何とか持っているが、ザルフィスの代で立ち行かなくなるのは目に見えていた。残りの数少ない領民たちも貧しくなるばかりでどうしてやることも出来ない。


(クロムナード公爵家の助けを借りて、いや、領民を任せてしまえたら、…なんて、情けないな。)


「失礼致します。当主様、クロムナード公爵家令息、クラウス様がお見えになりました。お通ししてよろしいですか?」

「勿論だ。すぐにお通ししろ。失礼のないように頼むぞ」


 悩むザルフィスの前に、見目麗しい青年、クラウスが現れた。


「突然の訪問、失礼いたします。ザルフィス卿にお話があり参上致しました。お時間を頂けますでしょうか?」

「勿論だ。久しいな、クラウス。…セリーナも呼んだ方がよろしいか?」

「いえ、ザルフィス卿とドナード殿にお話がございますので、セリーナ嬢をお呼びする必要はございません。それに、先程廊下で見かけました。元気に走ってらっしゃいましたよ」


 笑顔で述べた後、クラウスは形の良い唇をすこし歪ませた。


「未だに彼女はドナード殿を追いかけてるんですね…」


 クラウスの目の奥に闇を感じ、冷や汗をかいたザルフィスは、ドナードを急いで呼ぶように使用人に頼んだ。

 


 ーーーー



「ドナード!ドナードはどこかしらー!?ドナードー!?」

「はいはい、ここですよ、姉上」


 ドナードは財務室にいた。セリーナは、走って乱れた息を整えつつ、希望に溢れた目をドナードに向ける。


「ドナード、あのね、私たち結婚できるの…!」

「…はいはい、出来ませんよ。姉弟ですから」

「戸籍上はそうだけど…。お父様があなたが結婚したいと言えば良いって言ってくれたのよ…!」


 ドナードは、またセリーナが養父の話を中途半端に聞いて誤解しているな、と解釈した。ため息をひとつ吐くと、彼のメガネのレンズが白く濁る。


「はぁ、あなたにはクラウス様からの縁談があるでしょう?私と結婚なんて、何を寝ぼけたことを仰ってるんですか」

「それよ、それ!その話から、あなたと結婚する話になったのよ…!」


 セリーナは身振り手振りで一生懸命にドナードに事の顛末を説明した。それでも、ドナードは彼女を相手にしない。


「百歩譲って、父上がそう仰ったとします。ならば、私の答えはこうです。セリーナ姉様とは結婚致しません!

…以上、私には職務がありますので。あなたは趣味の土いじりでもしてください。」

「そ、そんなぁ…」


 はっきり振られてしまった。セリーナはガクンと肩を下ろし落胆する。

 それでも、血の繋がらない弟が書類を片付けていく姿をチラリと見て惚れ惚れとした。


 常に付けている丸メガネは理知的で、幼い顔をしている彼を大人っぽく魅せている。童顔なことを彼は気にしているけれど、セリーナはどんな彼も愛おしい。


 セリーナはドナードが赤子の時から知っている。養子に来た時には弟ができたことを喜んだ。物心ついた時には彼らは既に姉弟で、家族だった。子供同士で遊ぶ時も、離れることはなかった。

 子供たちの中には、例のクラウスもいた。

 セリーナはクラウスが苦手だった。彼の美形な顔も、幼いながらも洗練された所作も、セリーナにだけ意地悪で揶揄うような態度をすることも。

 対して、ドナードは表向きは冷たい態度をとるが、内面は温かく優しい。四年前にセリーナの母が亡くなって床に伏せた時も、クラウスに虐められて寝込んだ時もずっと側にいてくれた。涙で腫れた顔を見られたくなくて顔は見れなかったが、セリーナはドナードであることは間違いないと思っている。

 親愛から真愛に変化していったのは、彼の手の温かさを知った時からだった。


「ドナード様、ご在室でしょうか?」

「あぁ、いるよ」


 使用人がドナードに耳打ちで何やら伝えている。セリーナは後ろ髪引かれながらも財務室を後にした。ドナードの仕事の邪魔がしたい訳ではないのだ。



 ーーーー



 クラウスが来訪していることなど知らず、セリーナは日課の採掘を終えて、屋敷に戻った。いつも夕暮れになるまで気が付かず、夢中になってしまう。


(早くお父様に報告しなければ!あの、デラナイトの鉱脈が眠ってるかもしれないって!)


 セリーナは、鉱石オタクだった。炭鉱の地であるグーゲルダッツは、石炭の採掘が主な収入源であったが、炭鉱の副産物として稀少な鉱石が少量採れる地だった。

 最近は石炭の埋蔵量も減り、炭鉱夫も片手程度しかいないため、鉱石を目にすることは滅多にない。そんな中、セリーナは信じていた。


(グーゲルダッツで採れるフェル石炭は、そもそもデラナイト鉱石になる前の姿だから、深部に行けば鉱脈があるかもと思っていたのよ)


 そして、今日。セリーナはデラナイト鉱石のカケラを発見したのだ。彼女自ら掘り進めた小さな坑道で。小さい頃から少しずつ、占いとか探知器など使って導き出した場所を掘り進めた甲斐があった。


 セリーナは興奮冷めやらぬまま、父の執務室へ小さな希望のカケラを持って向かった。


 すると、執務室から長身な美丈夫が出てくるのが見えた。ドナードも続けて出てくる。

 ドナードよりも頭ひとつ大きい美形な男は、セリーナを見つけるや否や、空間が溶けるような甘い微笑みをつくった。


「セリーナ嬢、お久しぶりです。…大変活発な格好をされていますが、お怪我はありませんか?」

「あ、…お久しぶりです。怪我はありません…」

「安心しました。あなたの趣味の採掘でもされていたのでしょうか?お元気そうです何よりです」


 セリーナはドナードに視線を送る。この麗しい男性はどなた?と訴えていた。久しぶりとは返事をしたが、このような美貌の男性はセリーナの記憶にない。


 躊躇なくセリーナの泥まみれの手を取り、口づけをしようとする美丈夫を、ドナードがやんわりと制止する。


「クラウス様、口が汚れます」

「えっ!?クラウス様!?」


 セリーナは驚いて、パッとクラウスの手を弾いた。弾かれた彼は、着けていた手袋を取り、セリーナの手から移った砂埃を払う。その仕草は、気品に溢れていた。


「古い友人で、今は婚約者である私の顔を忘れるだなんて、酷い人だ。」


 クラウスは口では酷いなどと言いながら、にこやかに笑っている。セリーナは、過去に彼から受けた扱いを思い出し、身が引き締まった。


(クラウスが通っていた王立貴族学校は五年制のはずじゃ…。あ、そういえば二度の飛び級の末に三年で卒業した天才がいるってドナードが話していたような…。それってクラウスの事だったの!?)


 クラウスが貴族学校に入学したのは、三年前だ。セリーナは、彼が学校に通っているため五年は会う事はないと油断していた。


「まだ婚約者ではないはずです!…そ、それに、私はドナードと…」

「姉上、黙ってください」


 セリーナの発言を、ドナードが止める。公爵家と侯爵家では身分が違う。さらに、クロムナード公爵家に対してシェラトン侯爵家は、金銭的に援助を受けている立場にある。婚姻の打診を断ることは大変無礼なことなのだ。

 さすがのセリーナもその事情は理解していたため、ドナードの制止に従って黙るしかない。断るにしても、正式な手段を取らなければ。

 セリーナは過去のクラウスの面影に少しだけ怯えながら、それでも視線を逸らすことなく見つめた。クラウスは、形の綺麗な眉をやや下げて、哀愁のある表情で彼女を見つめ返す。


「ふふ、あなたは相変わらずですね。土まみれなところも、姉弟愛が強いところも…」


 クラウスはそう呟きながら、手袋を脱いだ素手でセリーナの汚れた手を取った。そして、彼女の手の甲に優しく唇を当てる。


「ひゃっ!」

「ではまた」


 セリーナの悲鳴に臆することなく、クラウスは華やかな微笑みを残して去っていった。



 その夜。セリーナは再度父の執務室に訪室しようとしていた。クラウスとの再会の後、執務室に入ろうとするとドナードに止められたのだ。『父上は今、考え事をされています』と。

 セリーナは鉱石のカケラをどうしても本日中に見せたかった。これまでの彼女の成果なのだ。デラナイトはまずそのもの自体が高価であるし、細工すれば装飾品に、鍛冶すれば武器にもなる。鉱脈が見つかり採掘が始まれば領地が潤うことは明白だ。


 執務室の前で、セリーナは立ち止まった。


『本当に良いのですか?』

『いいのだ、領民を守るために、ーーーには犠牲になってもらう』

『…犠牲など、そのような言い方は…。この話はーーーにとっても悪い話ではありません。彼女の幸せを思えば…』

『そうだな、そうかもしれない…。お前は良いのか?ーーーになっても』

『私は父上のお役に立てるのではあれば何でも致します。それをどうか忘れないでください…』


 父とドナードの声が聞こえる。込み入った話をしているようだ。母を失った時のような悲しい雰囲気を感じる。

 セリーナは結局、執務室には入らなかった。二人の話が気にならない訳ではなかったが、自分が聞いてはならないように思えたのだ。



 ーーーー



 次の日、ドナードが家を出た。夜中に王都へ出発したと、セリーナはザルフィスから聞かされた。


「な、なぜですか?ドナードは王都に用事などなかったはずですが…」

「…ドナードには元々、王立の貴族学校で学ぶ機会を与える予定だったんだ。しかし、資金もなく席が空かなくてな…。昨日、クラウス殿がいらしただろう?彼が紹介してくださったんだ。学期の途中だからな、一刻も惜しいと旅立ったよ」

「そんな…、私に挨拶もないなんて…。王立学校なんて、五年は会えないではないですか…」


 セリーナは項垂れた。ショックの余り、手先が僅かに揺れている。


「…そうでもないそ。この地に住んでいれば数年は会えないが、お前が王都へ行けば話は別だ。」

「え、私も王都へ行けるのですか?」

「そうだ。お前は常日頃から鉱石鉱石と、土と石と向き合っているだろう?王都へ行けば、採掘の勉強が出来るぞ。お世話になる家も、先生も決めてある。山の好きなお前がここから離れることが出来るか次第だ。」


 セリーナは迷った。この土地は好きだ、父も使用人たちもいる。だが、ドナードがいない。昨日掘り当てたデラナイトだって、見つけたばかりで掘り進めたい。でも、鉱石の勉強はこの地ではこれ以上できない。王都に行けば鉱石の採掘以外にも、領地の運営の仕方だって学べるかもしれない。

 セリーナは、決断した。


「私、王都へ行きます」


 ザルフィスは、セリーナの覚悟を受け止めた。


「では、この書類にサインをしなさい」


 差し出した書類数枚に、促されるまま疑うことなくサインしていくセリーナ。

 ザルフィスは胸に広がる喪失感と罪悪感に蓋をして、彼女を強く抱きしめた。


「…お父様?」

「王都に行ったら手紙をくれ。内容は何でもいい。私への恨み言でもいいから…」

「…どういうことですか?」


 セリーナは威厳のある父が弱気なっていることに疑問を持ちながら、数年ぶりに触れた父が以前よりも縮んでいるように感じた。セリーナが父の背中に手を回して撫でると、大きな体がゆっくり彼女から離れる。

 遠くなった父は、いつもの眼光の強いザルフィスに戻っていた。


「お前の出発は昼だ。急いで準備しろ」

「え!?そんな、準備間に合いません!ドナードが出発する前に起こして伝えてくれたら良かったのに!!そしたら彼にも会えたし、準備も今より余裕ありましたよ!」


 セリーナは文句を言いながらも急いで準備し、結局出発に間に合わせることができた。


 屋敷中の使用人たちは、仕事を中断して門までセリーナわや見送りに来てくれた。道歩く領民も足を止めて見守ってくれている。


「セリーナ様、王都には山はないですが土はあるはずです。このスコップとシャベルをどうぞ。私たちからの心ばかりの餞別です。」

「あら、可愛い道具。ありがとう、大切に使うわ」


 セリーナは皆の応援の中、迎えの馬車に乗り込む。


「…え、えぇ!?なんでクラウスが!?」

「セリーナ嬢、ご機嫌よう。私も王都に帰るので、相席お願いしますね」


 セリーナが怯えていることなど関係なく、馬車は出発する。クラウスと向かい合わせで座ると、セリーナはすでに屋敷に帰りたくなっていた。


(王都に着くまでの二週間、どのように過ごせというの?拷問よ、クラウスと一緒なんて!)


「私と同行ではご不満ですか?」


 心が読まれているのか、とセリーナは冷や汗をかいた。


「い、いえ、そんなことはありませんわ…」


 セリーナがクラウスを怯えるには訳がある。

 クロムナード公爵家は領地を複数任されており、そのひとつがグーゲルダッツ領の隣にあった。夏季になると避暑地として、クロムナード一家はその地に訪れていた。

 クロムナード公爵家当主の一人息子クラウスは、隣の領地に住むセリーナとドナードをクロムナード家の屋敷に毎年招いていた。三人は夏季の間中、休む事なく遊んでいたのだ。


 クラウスは美少年で愛らしい見た目をしていたが、中身は唯我独尊、俺様何様な性格だった。そして、活発で鈍感なセリーナに対してある時を境に強く当たるようになった。

 セリーナは、クラウスの機嫌を損ねるたびに手をきつく握られて彼の遊びに引きずり回された。酷い時は手錠や足枷を二人三脚ように着けられ、常に行動を共にしなければならず、自由のない生活を送った。10歳の頃からそんな状態で、それから六年間、彼女は彼の蛮行に耐えていた。

 今から五年前に、とうとう我慢の限界を感じたセリーナは体調を崩した。熱を出してベッドで寝ていたセリーナは、辛い日々に涙した。

 そんな彼女に付き添い、丸一日過ごしてくれたのがドナードだった。その翌年の夏、母が亡くなった時も側に居てくれたのはドナードだった。

 母が亡くなった翌年から、クラウスは王立貴族学校の寮に入り、領地に訪れることは無くなった。それからセリーナは夏季に対して恐怖心がなくなり、平和な日々を送っていたのだ。


(あんな日々が、これから二週間も…?)


 セリーナは狭い籠に囚われたネズミのように、息苦しかった。



 ーーーー



 結果から言うと、クラウスとの相席旅は平穏だった。むしろ、この紳士は本当にクラウスか?と疑ってしまうほど、彼は優しい。

 途中に立ち寄った街で、クラウスはセリーナに鉱石の本を数冊買ってくれた。セリーナは彼からの贈り物に躊躇したが、好奇心に抗えず受け取った。

 それから、乗り物酔いをして本を読めないセリーナのために、クラウスは鉱石の本を音読してくれた。


「サスディライトの輝きは海より蒼く、空より透明である。発見するにはミャマン石を用いてーー」


 クラウスの声は流れるようにすんなりと耳に入ってくる。穏やかで、暖かい。彼がこんな声をしていたなんて。セリーナの記憶ではキンキンと響く怒声ばかりが浮かぶ。目の前のクラウスと、暴れん坊なクラウスが一致しないのだ。


「蒼い輝きを持つ鉱石の中にはーー。…雨が降ってきましたね」


 ポツポツと、馬車の屋根を水が弾く音がする。セリーナはクラウスの音読が中止になったことを残念に思いながら、窓の外を見た。


「豪雨になりそう…」

「困りましたね…」


 セリーナの天気予想は的中し、その後豪雨となった。ゴロロロ…と、雷雨が活発に鳴り響かせている。馬車は止まり、雨が止むのを狭い車内で待つ。

 セリーナはふと、目の前の男を見た。涼しげな美貌のクラウス。しかし、口角はやや引き攣り、肘置きと外套の裾を力強く握って僅かに震えている。

 セリーナは無意識のうちに、彼の力の入った拳に自らの手を伸ばしていた。


「…セリーナ嬢、これは?」

「あっ、ごめんなさい…。クラウス様は雷が苦手な事を思い出したの…。」

「…」


 目の前のクラウスはいつもの貼り付けたような笑みを消して、出会ったばかりのようなあどけない表情をセリーナに向ける。

 その視線に耐えられず、セリーナはクラウスから手を離し、距離を取った。


「会わなくなってから三年以上経っているものね、もう克服したのかしら?…歳下扱いしたってまた怒られてしまうわね。勝手に触れてごめんなさい」


 セリーナは慌てて早口になる。遊んでいた頃、クラウスに何度も言われたのだ。『歳下扱いも弟扱いするな』『お前なんて姉などとは思わない』と。

 クラウスはドナードと同い年だったから、出会ってすぐの頃はクラウスも弟のように可愛がっていた。あの頃のクラウスは可愛かった、セリーナは天使のような弟がまた一人出来たと喜んだものだ。


 するり、とセリーナの膝の上に置いた手に、クラウスの手が重なる。


「…覚えていてくれたんですね」


 それは低く響く男の声だった。先程とは違う声質の音に、セリーナは肩を振るわせた。触れ合った手は、雨のせいか湿って、二人の皮膚をより密着させた。

 クラウスは、元の穏やかな声で、「本当は…」と語り始める。


「あなたに構ってもらえるなら、歳下扱いでも弟扱いでも、何でもよかったんです。

 初めてお会いした時からドナードが羨ましかった。優しいあなたという姉がいて、甘えることが出来るドナード。私が彼をイジメたことを覚えていますか?その時、初めてあなたに怒鳴られた。私はあなたがドナードを守る姿を見て、悔しかったのです。

 四年前までの私は幼く未熟で、あなたの注意を引きたかった。だから、あなたに沢山酷いことをしてしまいました。…申し訳ございません。」


 クラウスは深く頭を下げた。公爵家の令息が身分の下の者に、頭を下げ謝罪取るなどしてはいけない。


「頭をお上げになってください…!あの、私は、クラウス様に嫌われているものだとばかり…。今のお話を伺って、安心しました」


 セリーナの言葉に嘘はない。幼いクラウスに対しての恐怖心は記憶と共に残るだろうが、目の前の現クラウスに対して思うことはない。馬車での数日間も、彼には随分助けられた。

 虐められていたのは何年も前の話だ。水に流したって、過去の幼いセリーナも許してくれるだろう。


 クラウスは、花が咲いたように微笑んだ。そういえば、出会ったばかりの頃、彼はこんな可憐な少年だったかもしれない。


「…18歳になるというのに、未だに雷は怖いものです。どうか、馬車が停車している間だけ、お手をお借りできませんか?」

「もちろんです。クラウス様の気が休まるのなら、いつでも使ってくださいね」


 二人は手を取り合って、雷雨の中過ごした。セリーナは不思議と、彼の手に触れると安心する感覚を味わった。


(あんなに恐ろしかった彼の手が、安心すると思うなんて、不思議だわ)


 それにしてもーー。


(クロムナード公爵家は私に婚姻の打診なんてされたのかしら。てっきり、クラウスは意地悪なままで私に嫌がらせをしたいのだとばっかり思っていた。田舎の貧乏令嬢を王都に呼んで笑い者にするのだと…。でも、そうじゃなさそうだわ。だとしたら、何故クラウスは私なんかと…)


 クラウスが王都にいることは、セリーナが王都に行くことを拒んでいた理由のひとつだった。王都行き、彼に会えば昔のように酷い目に遭うと思っていたのだ。しかし、彼にそんな気はなさそうだ。

 社交界から離れていても、クラウスの噂くらいは耳に入る。麗しい美丈夫な彼は、王都の有力貴族のご令嬢から熱心にアプローチされていると。そして、誰にも靡くことなく、王立貴族学校で勉学に励んでいると。


(クラウスの後ろ盾のおかげで、ドナードは学校に通えているのだから、彼に失礼があってはいけないわ。婚姻の申し立ての猶予は一年。それまで、はっきりとした返事はせずに、ドナードの学校での生活が落ち着くのを待ちましょう。)


 それにーー。


(公爵家の中でも王族に近い立場のクロムナード家の令息が貧乏侯爵家の私と結婚なんて可笑しいわ。きっと、クラウスにも何か理由があるのよ。彼が言い出すまでは、詮索するのもいけないわね)


 ひとまずは、我が家の領土のため、鉱石の勉強をして侯爵家の再建を図ろうと、セリーナは雨空に誓うのだった。



 ーーーー



 セリーナは王都に着いてから、たくさんの違和感を感じていた。


「私のお世話になる屋敷というのは…」

「我が屋敷ですよ。ようこそ、お部屋はもう準備しておりますので、一緒に行きましょう」


 まず、セリーナはクラウスの屋敷に住むことになった。領地の実家よりも豪華な、セリーナの為の部屋。田舎の貴族である彼女にとって、豪奢な屋敷は落ち着かない。


 次に、侍女たちに「奥様」と呼ばれること。婚姻の打診は受けたが、正式に返事していないし、断るつもりである。それなのに、クラウスの屋敷ではセリーナをまるで彼の正妻のように扱うのだ。セリーナがクラウスに訂正するよう、それと無くお願いしても彼はのらりくらりと相手にしてくれない。


 そして、ーーこれは違和感というより寂しいという感想なのだがーー、王都に着いてひと月経過したというのに、未だにドナードと会えていない。


「ドナード殿は学校に入ったばかりで学業に忙しいでしょうから。それに、寮に入ってしまえば中々外には出られないのですよ」

「それは、理解しているつもりですが…少しだけでもいけませんか?」

「…大丈夫。いずれ会えますから」


 クラウスは優しい。それでも、セリーナは今ひとつ彼を信じきれなかった。あの馬車以降、彼は仮面を被ったように、素顔が見えない。


 セリーナにとって、唯一の楽しみは鉱石の勉強だった。父が手配してくれた講師は、小柄な少女・ミシェル・ブライアン伯爵令嬢。王立貴族学校の三年生だ。

 ミシェルは若年だが聡明であり、国の地質分野においては研究機関に呼ばれるほど詳しい。辺境伯である父の元で日夜勉学に励み、特に地質や鉱山についてはその地に住む学者から教えてもらっていたそうだ。

 

「さあ、今日こそデラナイトについて教えてくださるかしら?」

「まったく、セリーナさんたらそればっかり。どのように土が盛り、地面が動き、山が出来、このような地形になったのか。それを知らなければ、鉱石の話は出来ませんよ。今のあなたは付け焼き刃の知識ばかり。これでは、いつデラナイト鉱石に辿り着くのやら」


 ピシャリと、ミシェルは言い放つ。突っぱねるようなものの言い方に、セリーナはドナードの面影と重ねる。セリーナは静かに微笑んだ。

 王都に来てから、セリーナを取り囲む人たちは皆、腫れ物に触るように彼女に接する。だから、ミシェルの存在はセリーナにとって癒しだった。


「…ふふ、そうよね。勉強するために王都まで来たのだから、基礎から全て覚えなければね。…前回お借りした本と、屋敷に置いてあった本は全て目を通したの。けれど分からないところがあって…こことか」


 セリーナは分厚い本に挟んだ栞を頼りに指をさす。


「こんな分厚い本を短期間で?…それに屋敷にある本本全てを?」


 ミシェルは目を丸くする。クラウスの屋敷にある図書は膨大で、地質分野だけといっても数十冊もある。全て読むのに丸何日かかったんだろう、とミシェルは驚いた。


「前回詳しく教えていただいて、歴史書の読み方も理解出来たの。今までは歴史書の見方も分からなかったの、ごめんなさい。…ミシェルさんの貴重な時間を頂いているんだもの。私は屋敷でお手伝いもさせてもらえなくて、時間が有り余ってるの。だから、その時間を予習に当てて、あなたに会える時間は質問の時間にしようと思いましたの」


 「あなたのことも、教えて頂きたいし」と、セリーナが笑いかけると、ミシェルはプイッと顔を逸らした。少し耳が赤かなっていることをセリーナは見て見ぬ振りをした。


「さすが、クラウス様の見込んだ方ですわ。勤勉でよろしいです」


 ミシェルは飛び級した天才クラウスを尊敬しており、そんな彼の家に住む令嬢のセリーナを最初こそ訝しんだ。しかし、ミシェルは段々とセリーナに絆されていくのだった。



 ーーーー



「七日後の舞踏会で、私にあなたをエスコートさせて頂けますか?あなたのデビュタントを隣で祝いたいのです」


 クラウスの発言に、セリーナは返答を迷った。20歳で社交会デビューは遅いがまだ許容範囲だろう。しかし、セリーナは踊りが不得意で恥をかくのは目に見えていた。それに、ドレスも高価なものは準備出来ない。それらの事情で、彼女は王都の舞踏会を避けていたのだ。


「踊りが苦手なのは存じてます、私と踊ればあなたを下手には見せません。ドレスや装飾品もこちらで準備しますよ」


 まるで心情を読まれているように、クラウスはセリーナの心配を払拭する言葉をくれる。それでも、セリーナは悩む。見目麗しい貴公子のクラウスにエスコートされて舞踏会に行けば、噂になるだろう。そして、婚姻の申し出を断り辛くなる。


「そんな、申し訳ないわ。あなたは社交界の花なのでしょう?恥は欠かせられないわ」

「ドナードともお会い出来ますよ?」


 クラウスは仮面のような微笑みのまま、セリーナに提案をする。


「あなたの華麗な姿を彼に見せては如何ですか?着飾ったあなたを、彼は見た事がないでしょう?あなたへの態度も変わるかもしれませんよ」


 企みの囁きに、セリーナは頷いた。姉弟の関係を、ドナードは頑なに崩そうとしない。どんなに好意を伝えても、彼はのらりくらりとかわすのだ。


(これはいい機会かもしれないわ)


 セリーナは二つ返事で承諾した。そんな彼女を、クラウスが見下ろしていることも知らずにーー。




 ーーーー



 王宮で開催される王主催の舞踏会は、セリーナのデビュタントを飾るにはあまりにも格式が高い。

 着飾ることも、王宮に入ることも初めてのセリーナは、緊張して身体が硬くなっていた。


 歳近い貴族令嬢たちの煌びやかな衣装と、見たこともない宝石たち。夜なのに、昼みたいに輝くシャンデリアが、セリーナの頭を混乱させた。


「私の側にいてくださいね」

「は、はい…」


 この人の多さ、一度でも離れたらクラウスを見つけられない。彼のエスコートなしには、ドナードを見つけることも叶わないだろう。意地でも離れないぞ、とセリーナは、彼と組んだ腕に力を入れた。


 王と王妃のダンスが終わり、大広間は一気に華やいだ。次は王族に近い家柄の者から順に踊りの相手を選ぶ。


「セリーナ嬢、お約束した通り、私を相手に選んでくださいますか?」


 クラウスの誘いに、セリーナはお辞儀で答える。クラウスが彼女の手を取った瞬間、会場中の視線が二人に向いた。


「あのご令嬢、どなたかしら?」

「あら、もしかして噂の…?」

「クラウス様のあんな表情見た事ないわ」


(ドナードと会うためにお洒落して良かったわ。デビュタントがこんなに視線向けられるなんて…)


 会場がザワザワと騒ぐなか、楽団の奏でる音楽が変わる。クラウスはセリーナの腰に手を添え、優雅にステップを踏む。

 クラウスはそっと、踊りに集中しているセリーナの耳元に口を近づけた。


「今日は特別な日になりますよ。あなたにとっても、私にとっても…ね」


 セリーナは彼のダンスについていくのがやっとのことで、クラウスの話など聞いていない。そんな彼女を、クラウスは愛おしく刹那げに思うのだった。


 音が終わり、セリーナがクラウスに習って礼をすると、彼は中央へ一歩前に出た。

 静まり返る会場で、クラウスは王の方へ向き直り深く一礼をする。


「陛下。この場を借りて、皆さまにお伝えしたいことがあります」

「クラウス・クロムナード公爵令息、許す。申せ」


 状況の飲めないセリーナを一人置き去りにして、話は進んでいく。


「クロムナード公爵家令息、クラウス・クロムナードは、シェラトン侯爵家令嬢、セリーナ・シェラトンとの婚約をーーここに正式に発表致します」


 大広間は揺れる。驚きと歓声、嫉妬に困惑。さまざまな感情がうごめいていた。


(…そんな、なぜ…)


 それから舞踏会が終わるまで、セリーナは公爵令息の妻として時間をやり過ごした。

 名の知れた有力貴族たちが次々と挨拶にくるのを、クラウスが丁寧に対応した。セリーナは彼の隣で、ただ微笑んでいればよかった。

 この場で騒ぎは起こせない。社交会の出来事はその後に大きく影響する。貧しい領民を抱えた父と、貴族学校に通い始めたばかりの弟の姿だけが頭に過り、セリーナは茫然自失しながら耐え切った。


 クラウス一人が国の重鎮に呼ばれ、セリーナはようやく彼の妻役から解放された。

 彼を待つ間、侍従に客間を案内されたセリーナは、豪奢な王宮の部屋に落ち着かず、外に出た。建物の光が溢れる王庭は、夜なのに華やかだ。

 

 セリーナはふと、人影に気がついた。それは、貴族らしく着飾ったドナードだった。


「ドッ……、ドナード…!」


 逸る気持ちのまま、大声で呼びそうになり、セリーナは声を押し殺した。まだ、舞踏会の参加者はたくさんいる。これ以上目立ちたくはなかった。


「姉上、今宵はおめでとうございます」

「なっ、おめでとうだなんて、あなたは言わないで…」

「姉上の結婚を祝わない弟がどこにいます。何度でもおめでとうと言いますよ」

「そんな…、私は承諾したつもりなんてないのよ…。私はあなたと…」

「姉上」


 セリーナの発言を、ドナードが鋭い眼光で止める。これ以上は言うな、と彼の目が語っていた。


「クラウス様は、昔から姉上だけを慕っておいででした。学校に通い、夏の余暇を共に過ごせなくなってからも、あなたのことを常に気にされて、私と手紙でやり取りしていたんですよ?そんなクラウス様をを無下に扱うことは許しません」

「私はそんなこと知らないわ…。彼は私のこと嫌っていたじゃない…」

「そう捉えていたのは、あなただけですよ。皆、クラウス様の天邪鬼な愛情だと気付いていましたから」

「でも、私は…」


 言い淀むセリーナに、ドナードは一定の距離を保ったまま彼女を諭す。


「姉上も分かっておいででしょう?クラウス様との結婚は、もう覆すことはできない。そもそも、婚姻の打診を受けた時点で断れる訳がないのです。私たち侯爵家には」


 セリーナは胸が苦しくなった。眼鏡のレンズ越しに、彼の憐れむような目と視線がぶつかった。


「私は、父上に恩返しがしたい。その一心で、今勉学に励んでいます。

 そしてーー、あなたにも恩返しがしたい。…何度も、あなたに救われましたから」


 頬に伝う涙を、セリーナは拭わなかった。目を閉じる瞬間も惜しいくらい、ドナードを見ていたかったのだ。


「…シェラトン家の領地は、私たちに任せてください。あなたは土が恋しくなるかもしれませんので、たまに石ころでも贈って差し上げますよ」


 ドナードは、口角を上げて歪な微笑みを作ると、セリーナに背を向けた。

 セリーナは堪えることが出来なかった。ドナードを追いかけて外套の袖を掴む。僅かばかりの理性で、声量は抑える。

 

「ドナードッ…、あなたじゃない…!私と結婚したいと言ったのは…!本当の家族になりたいって、あなたが言ったのよ…!!」


 ドナードが両親を亡くし、屋敷に養子として迎えた幼い頃、彼は心を閉ざし、セリーナに何枚もの壁を作っていた。そんなドナードに構い続けようやく心を開いてくれた時に、彼が高い鈴のような声で言ったのだ。

『僕はお姉様と結婚して婿になって、父上と母上の子どもを作るんだ。そしたら、本当の家族になれるよね。お願い、僕と結婚して!』

 言われた時、セリーナは笑って受け流していた。しかし、段々と、彼女自身もそうなりたいと思うようになったのだ。ドナードは年々冷たく接してくるようになったし、声も身体も成長したけれど、それでもセリーナの目には、あの日の幼いドナードと変わらない。


「…離してください。何歳の頃の話ですか。私たちはもう子どもじゃない。…どうか、忘れてください」


 ドナードの去っていく背中を、セリーナは止めなかった。ドナードの声は震え、声色には拒絶の意が含まれていた。

 思慮深く心労が多い弟の荷物をこれ以上増やすことが、姉のセリーナには出来なかった。


 客間に戻ると、すでにクラウスは用事を終えていた。セリーナの充血した目を見ても、クラウスは詮索しなかった。


「…式は来月です。ザルフィス様も、こちらにおいでになりますよ」


 帰りの馬車で、クラウスは一言だけセリーナに伝えた。その言葉に、セリーナは返事をしなかった。


 割れたガラスのように散らばった感情を、セリーナは整理することが出来なかった。

 思えば、出発前の父の様子もおかしかった。領民を想う父のことだ。きっと、シェラトン侯爵家とグーゲルダッツ領を守るために、娘を欺くしかなかったのだろう。セリーナに、父を恨むことなど出来るはずがなかった。

 ドナードに対してもそうだ。彼は全て承知の上で学校に通うことを選んだのだろう。家のため、父のため。ドナードらしいと思う。忠誠心が強く、義理堅い彼だから。それならば、姉としてドナードの意志を汲み取らなければならない。

 セリーナは毎日のように、枕を涙で濡らした。


(こんなに泣いたのはいつぶりだろう。あの時のように、ドナードに手を握って欲しいだなんて…。私は淺ましいわね)


 婚儀を迎えた時には、セリーナの心は決まっていた。



 ーーーー



 婚儀の日、街灯沿いにはクロムナード公爵家の紋章旗が掲げられた。式は王宮内の礼拝堂で行われ、空気は張り詰めていた。


 純白の煌びやかな婚儀ドレスに身を包み、セリーナは侍女たちが準備していく様子を、遠くの絵画を見るように眺めていた。


「…セリーナ、綺麗だな」

「ありがとう、お父様」


 ザルフィスは、セリーナの控え室に訪れると、俯いて目頭を強く抑えた。項垂れそうになる体を必死に保とうとする父を見て、セリーナは侍女に退出するよう頼む。


「お父様、どうか、お顔を上げて」

「すまないっ、すまないっ…。父として、私は情けない…!」

「お父様は、父である前に侯爵家当主で、領主でしょう?間違ったことは何一つしておりません」


 セリーナがザルフィスの背を撫でていると、来訪者が現れた。


「姉上、本日はおめでとうございます」

「ありがとう、ドナード」


 ドナードは普段通りの様子で、あの日の揺らぎを一切見せなかった。セリーナもそれに応えて、姉として彼に接する。


「そうだ、ドナード、お願いがあるの」

「なんでしょう?」

「手を握ってくれない?」

「は?」


 姉の要望に、ドナードは目を細めて睨む。


「やましい想いはないの!ただ、お母様が亡くなって私が寝込んでいた時、夏中ずっと手を握っていてくれたでしょう?だから、あなたに握ってもらえたら、お母様を深く思い出せる気がして…」


 誤魔化しながら早口で伝えるセリーナに、ドナードはあっけらかんと言う。


「あれは私ではありません。クラウス様ですよ?」


 「あ、これ内緒でした。忘れてください」とドナードは眼鏡を仕切りに触りながら言う。


(どういうこと?あれはドナードでしょ?…だって、クラウスは私をイジメて、嫌いで、だからーー)


「…クラウス様はあの頃、泣いているあなたを放って置く事ができず夏中側にいました。ただクラウス様はあの頃素直ではなかったですから、手に触れている事がバレるのが恥ずかしくて黙っているよう頼まれたのです。それももう時効かもしれませんね…」


 セリーナは思い出した。彼女が泣いていたのは、クラウスのベッドでだった。夏中、クラウスはセリーナと一緒に寝たがって、嫌々ながら彼のベッドで寝ていたのだ。『ドナードとはいつも一緒に寝ているのに、僕は駄目なのか!?』と、いつも怒ってた。

 そして、ドナードは違う屋敷で寝ていた。クラウスが寝ている時くらい離れろと言ったのだ。

 就寝後も離れる事なく握っていてくれた柔らかい手。隣でいつも寝ていたのはクラウスだったのに。


(どうして勘違いしていたのかしら。…馬車で彼の手を握った時に懐かしかったのも、あの時の感触を身体が覚えていたの…?)



 祭壇の前に立つクラウスは、黒と銀の衣装に身を包み、彼の美貌をより鋭利なものにしていた。

 彼は真っ直ぐセリーナを見つめている。その視線は幼い彼から受けていた眼差しと一致する。物欲しそうなのに、欲しくないと強がる男の子。

 セリーナは彼の元へ歩きながら、ようやく地に足がついた気がした。


 婚儀が終わると、セリーナはそっと横に立つクラウスの手を握った。骨がゴツゴツとした男らしい大きい手。セリーナはこの手に救われたことがある。


「あなたの手、こんなに大きくなったんですね」

「…昔は小さかったですか?」

「はい。でも、とても暖かった。」


 クラウスは、セリーナの手を強く握り返す。


「…あなたと過ごす夏だけを楽しみに、私は生きてきました。どんな苦労も、乗り越えられた。独り占めしたいと、何度も神に願いました。…あなたに憎まれてもいいんです。ただ、側にいたい…」


 セリーナは、ついこないだまで恐ろしかったクラウスが、弱気になっているのが少しだけ面白かった。


「憎むよりも、私は愛したい派です」

「…いいのですか?」

「あなた次第です。手始めに、私の願いを聞いてくれますか?」

「なんなりと」


 その後、クラウスとセリーナは新婚旅行という名目で、グーゲルダッツ領に訪れていた。

 そして、グーゲルダッツの鉱山から、デラナイト鉱脈が見つかり、王国は一時その話題で持ちきりだった。採掘員の中には、ミシェルの姿もあり、彼女の功績は大きかった。


 季節は夏になっていた。セリーナは薄手のドレスを着て、その裾を紐で縛り足を露出した姿で、鉱石の研究をしていた。


(デラナイトはミシェル先生曰く、採掘してから早急に研磨すれば輝きが増し、年数を置いて鍛冶すれば頑丈な武器の原料になるのよね)


 採掘したからといって終わりではないのだ。セリーナの帰属がクロムナード公爵家になっても、彼女は故郷の運営に関わりたかった。クラウスの両親も、シェラトン家を手伝うことに了承してくれた。

 実は婚姻時に両家の密約が交わされ、グーゲルダッツの領民をクロムナード家の領土で面倒を見る事になっていたのだが、今回のデラナイト発掘で有耶無耶になった。その事を知らないのはセリーナだけだ。


 コンコンとノックがして、クラウスが部屋に入ってくる。扉の開け閉めで土埃が舞う空間に、クラウスは嫌がるそぶりなく足を進める。


「あなたは研究熱心ですね。明日、王都へ帰ると言うのに」

「明日帰るからこそ、ここでやらなければならない事があるのです。今晩はここに泊まりますので、先に寝ていてくださいね」

「…」


 セリーナとクラウスは未だに身体を繋げていない。彼女がクラウスの寝室に訪れないのだ。クラウスは溜まったもんじゃない。


「ここへはまた来ればいいでしょう?だから、私の相手もしてください」

「それはいつですか?」

「え、いや、来年の夏とか」

「それでは困ります。あなたも、この地が好きでしょう?私は知りませんでしたが、学校に通っている時もこの鉱山に通っていたって、ドナードが言ってましたよ」

「そ、それは土まみれで頑張るあなたを見たくて…。では、父に相談させてください。隣の領地の運営を任せてもらえないか。父と王から許可が降りれば、私とあなたの住む屋敷を建てて…」

「まあ!素敵!じゃあ、許可が降りるまで私はグーゲルダッツで暮らしてあなたを待ってるわ!」

「え、いや、私は相談するとしか言ってません!結果どうなるか分かりませんよ。それに、何年もかかります」


 セリーナはクラウスの話が途中なのに、すでに作業を再開していた。

 キラキラと目を輝かせ、顔も手も土まみれにして、直向きに取り組む彼女が、クラウスは好きだ。


「分かりました。私は王都に一度帰ります。あなたは、ここに残ってください」

「え、いいの!?」

「はい、ただしーー」


 クラウスはセリーナの汗と土の付いた腕を掴み、引き寄せる。


「今夜は私の部屋に来るように」


 セリーナとクラウスの間に、宝玉のように麗しい子どもが誕生するのは、まだ先のお話ーー。


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