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白い結婚だった夫が離婚届を破り捨てた  作者: 秋月 もみじ


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第9話 壁越しの三年間


試験の朝、書斎の前にお茶が二つ並んでいた。一つは私が置いたもの。もう一つは。


いや、二つではない。三つだった。紅茶。コーヒー。そして、オレンジ色の液体。温め牛乳に蜂蜜を入れたもの。ミランダが「試験前はこれがいいよ」と勧めてくれた飲み物。


誰が置いたのか、聞かなかった。聞く必要もなかった。


◇◇◇


結界室。試験官五人。その中で、クラウスは無表情だった。


実技試験。三時間の魔力供給。ただし、今日は違う。今日は、評価を受けるための試験だ。一人ではなく、見守られながら。


結界に、魔力を注ぎこんだ。いつもと同じ。壁に手を当てて、目を閉じて、流す。三年間毎晩繰り返してきた動作だ。ただし今日は、壁ではなく結界の核に直接触れている。試験官たちの視線が背中に刺さる。計測装置が動く音。ペンが記録用紙を走る音。全てが、記録される。


最初の三十分で、波動が安定した。自分の魔力の流れが、結界の脈動と重なっていくのがわかる。三年間、毎晩感じてきたリズム。体が覚えている。息を吸うように、魔力が流れていく。


一時間。二時間。結界が光った。いつもより明るく。いつもより強く。三年間、壁越しに感じていた結界が、今は完全に目に見える形で光っている。薄い青白色。壁越しに見ていた光と同じ色。けれど今日は、遮るものがない。


試験官の一人がグラフを見つめていた。結界の波動とリーアの波動が、二本の線として記録されている。ほぼ重なっている。一つの線に見えるほどに。


「安定率99.8%。これは……」


試験官が呟いた。隣の試験官と目を見合わせている。


三時間後。足が痺れていた。三年前、最初の夜と同じだ。けれど今日は、立ち上がれた。


試験合格。


◇◇◇


昼食の後、クラウスが書斎に呼んだ。


「聞いてほしいことがある」


彼が言った。いつもと違う。報告書ではなく、お願いの言葉。


「どういったことですか」


聞いた。


彼が机を整理した。いつもの報告書ではなく、別の書類を並べ始めた。グラフ。魔力波長データ。日付が記されている。三年前から、今日まで。


クラウスはグラフの一枚を指さした。波のような曲線が描かれている。結界の波動と、もう一つの線。重なるように動く、もう一つの波。


「これが、君の魔力だ」


それだけ言って、黙った。指先が、グラフの上を辿った。ある日の波動が穏やかに凪いでいる箇所で、指が止まる。


「この日、君は穏やかだった」


次に、波動が乱れている箇所を指した。


「この日は、違った」


声が低い。いつもの報告書のような調子だ。けれど指が震えていた。


グラフをめくった。別の日。波動が途切れそうになりながら、それでも続いている線。あの冬の夜だ。明け方まで魔力を注ぎ続けた日。結界が不安定になって、三時間おきに起きた日。クラウスの指がその線を撫でるように辿った。言葉にしない。ただ、指で示す。この日も。この日も。


さらにめくった。ある日の波動が激しく乱れている。記録室に行った日だ。自分の名前が消されていたことを知った、あの日。波動が、感情をそのまま映している。こんなにも正直に。


「俺は、毎晩感じていた」


それだけだった。説明ではなかった。弁解でもなかった。ただ、事実を置くように。


「壁越しに、君の独り言が聞こえていた」


続けた。声が、さらに低くなった。


「結界の話だと思っていた。『今日は不安定ね』『明日も保つといいな』『結界が疲れてるみたい』。全部、結界に向けた言葉だと」


そこで、言葉が止まった。一呼吸。二呼吸。机の上のグラフを見つめている。けれど、グラフを見ているのではない。三年間を見つめている。


「違った」


一語だけ。そこに、三年分の後悔が詰まっていた。


あの独り言は、結界に向けた言葉ではなかった。私が自分自身に向けていた言葉だった。『今日は不安定ね』は、私の心が不安定だったということ。それを、この人は波動データとして毎晩受け取っていた。データとしては読めても、感情としては読めなかった。


「そんなことは……」


言いかけた。


クラウスがグラフの上に手を置いた。素の手。黒い手袋をしていない。


「なぜ、『結界が保てない』と言ったのですか」


声が、自分のものではなかった。


彼は答えなかった。代わりに、窓の外を見た。冬灯花が、結界光に照らされて薄紫に光っている。長い沈黙。書斎にペンの音はない。ページをめくる音もない。


「夜になると」


ようやく口を開いた。


「壁越しに、魔力が流れてくる。その瞬間に、ああ、いるんだな、と。それだけだ。それだけのことが、毎晩の確認になっていた」


言葉を探している。この人は、報告書なら何十ページでも書ける。けれど自分の感情を言葉にしたことがないのだ。三年間、一度も。


「それが消えるのが」


また止まった。喉が動いた。


「怖かった」


短い一言だった。団長の声ではなかった。ただの、一人の人間の声だった。


「リーア」


名前で呼ばれた。初めて。壁越しではなく、同じ空間で。その声が震えている。


手が、机の上で、私の手を探していた。不器用に。グラフの紙を押しのけながら。


握った。温度が伝わった。素の手。指先が冷たい。この人はいつも手が冷たいのだろうか。三年間、壁越しに感じていた気配は、温度を持たなかった。けれど今、直接触れると、こんなにも冷たくて、こんなにも確かだ。


書斎の窓から、冬灯花が見えた。結界光に照らされて、薄紫に光っている。


「これからは、壁なしで」


彼が言った。それ以上は続かなかった。言葉にならなかったのだろう。報告書なら何百枚でも書ける人が、たった一つの願いを言い切れずにいる。


答えなかった。手を握ったまま。この人は三年間、壁の向こうで私の感情を受け取り続けていた。受け取っていながら、それが何なのかわからなかった。鈍いのではない。知らなかったのだ。自分の感情の名前を。


私だって同じだ。毎朝お茶を置いていた理由を、義務だと思い込んでいた。銀木犀の香りを足していたのは、実家の習慣だからだと。けれど本当は、壁の向こうにいる人に、何かを届けたかっただけなのかもしれない。


壁が消えようとしていた。三年間立てていた壁が。気づかない間に、もう薄くなっていた。


書斎のランプが、いつもより明るく光っていた。春の光が、窓から差し込んでいる。

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