第5話 帰る場所がない
手紙が届いたのは、翌日の朝だった。
ライナー伯爵領からの郵便馬が、王都の北門に着いた時間が刻まれていた。父ゲルハルトの印鑑が押されている。上等な羊皮紙。金色の蝋で封をされた、いかにも正式な文書。いつもの通り、丁寧で、無表情で、氷のような内容だ。
「離婚するなら、次の嫁ぎ先を用意する。だが条件がある。お前の魔力は家の資産だ。それ相応の見返りを要求する。新しい夫の候補は三名。身上書を添付した。一ヶ月以内に返答をよこせ」
三名。そこには詳細な身上書が添付されていた。伯爵、子爵、準男爵。全て貴族。全て娘のいない家か、嗣子が決まっていない家。つまり、安定した相手だ。父の評価では。
机の上に置かれたままの手紙を、五回は読んだ。六回目に、声が出た。
「冗談ではない」
誰もいない部屋で、呟いた。感情がやっと形を持った。それは怒りではなく、絶望だった。
宮廷を出る道を選んだのは、自分の意志だ。独立したい。そう思った。だから記録室に行った。これまでの実績を、自分の名前で証明したかった。だが、実績は全て消されていた。全て「クラウスの業績」だった。(こんなに簡単に消されるのか。三年間が、一欄で消えるのか)
ならば、独立などできない。
◇◇◇
法務官の元を訪ねた。王宮東翼の法務部門。綺麗に整えられた机。丁寧で、無表情で、私の父と同じような年配の男性。
「魔導師として独立し、個人で請負を受けたいのですが」
その台詞を言うために、一日を費やした。声を作った。取り繕った。丁寧語を完全に整えた。笑顔も作った。
「そうですか。実績の確認が必要ですね」
法務官は記録を調べた。羊皮紙を、ページをめくる音。さくさくと、機械的な音。
「ここに記載されている実績は、全て宮廷魔導師団の業績として登録されています。個人では、実績がありません」
その一言で、全てが終わった。
世界が、静かになった。音がしなくなった。呼吸も、心音も。あるのは、空白だけだ。
三年間の魔力供給。夜間結界の維持。波長の微調整。季節ごとの結界変動への対応。全てが、チェック項目のない欄に消えていた。記録されない行為は、この世界では存在しないのだ。
「再登録することは可能でしょうか」
弱い声で聞いた。
「可能ですが、団長の確認が必要ですね。または前団長の推薦状。いずれにせよ、個人での実績登録には、上位者の確認が不可欠です」
その言葉を聞いて、私は絶望の底に到達した。
◇◇◇
帰路を歩きながら、私は何度も同じ思考を繰り返した。
クラウスに頼むしかない。だが、頼むと何が起きるか。妻の地位は、より強固になる。独立も、離婚も、できない状態になる。(だから嫌だったのに、今、それが必要になるなんて)
それとも、父の提案を受けるか。新しい夫。新しい家。でも、同じだ。魔力は相変わらず家の資産。私は相変わらず商品。つまり、現在地を変えるだけだ。
でも、クラウスに頼む権利がない。妻のままでいるしかない。だが、離婚届に署名して、父に返送する道もある。ならば、嫁ぎ先を変えるだけで、結局は同じ。魔力は家の資産。私は商品だ。どこへ送られようとも、商品であることは変わらない。
その認識が、最後の選択肢を奪った。
夜の王都エーレンブルクを歩いた。街灯が灯り始めていた。通りすがりの人々は見知らぬ顔ばかり。いや、以前から知らない人ばかりだったのだ。私は三年、その中で何をしていたのか。存在しないはずだから、何もしていないということだろう。
冬灯花の香りが夜風に混じっていた。季節の香り。でも、私には関係のない香りだった。
答えが出なかった。出ようがなかった。
◇◇◇
クラウスの書斎に入ったのは、夜の十時だった。
人が少ない時間を選んだ。廊下も、階段も、誰もいなかった。書斎の扉をノックして、許可を待たずに入った。(失礼だ。でも、今さら何が失礼だ)
「何か用か」
クラウスが顔を上げた。机の上には、いつもの報告書が積み重ねられている。今夜のお茶は、まだ飲まれていないみたいだった。湯気がうっすら立っている。
「妻として、一つのお願いがあります」
言葉を選んだ。丁寧語で、全てを整えた。声を作った。表情を整えた。でも、次の一文で全て崩れた。
「あなたのために、三年間、私は結界を維持してきました。深夜、何度も。それが記録から消されていた。父からは、離婚して新しい嫁ぎ先を選べと言われました。独立も、できません。実績がないことになっているから」
短文になっていく。呼吸が荒くなっている。自分でも気づいていた。
クラウスが動かなかった。
「つまり、私はここを出ることができません。どこにも、帰る場所がない」
声が詰まった。続きを言うのに、呼吸が必要だった。目の奥が熱くなっていた。(泣いてはいけない。ここで泣いてはいけない)
「しばらくここにいさせてください。ただし、妻としてではなく。もう、妻としてではなく」
それ以上は言えなかった。言葉が音にならない。涙が出ないよう、必死に目を見開いていた。喉が詰まっていた。あと一言でも言ったら、壊れてしまう気がした。
長い沈黙があった。クラウスは何も言わなかった。ただ、私を見ていた。その視線が、いつもと違う。報告書のような無表情ではなく、何かが見えている。何か、言いたいことがある目。
でも、彼は言わなかった。一呼吸おいて、こう言った。
「わかった。その条件でいい」
たったそれだけ。でも、その言葉で、私は床に膝をついた。音を立てないように。涙を出さないように。でも、全て出ていった。
◇◇◇
翌朝、私の部屋の前にお茶が置かれていた。
いつもと同じ蜂蜜入り温め牛乳。いつもと同じ、白い器。だが、カップの置き方が違う。昨日まで、お茶はいつも私が淹れていた。それが、今朝は。
クラウスが淹れたのだろう。あの報告書のような人間が、私の習慣を真似た。
◇◇◇
一晩、私たちは何も言わなかった。彼は書斎で何かを書き続けていたようだ。朝までの音がした。ページをめくる音。ペンの音。その音を、私は二階で聞いていた。眠れなかった。涙で。
朝が来た。窓から日が差し込んでいた。春の日光。冬灯花がより濃く見えた。季節が変わろうとしている。でも、私は。
部屋の前にお茶が置かれていた。
カップを手に取った。温かさが、手のひらに残った。蜂蜜の香りが、鼻に届いた。この香りは、私が毎朝、この部屋で淹れていた香りだ。何百回と。何千回と。その香りが、今朝は。
クラウスが淹れたのだ。
三年間で初めて、涙が出そうになった。本当の涙。感情からの涙。
何も言わずに、彼は。報告書のような無表情で、何も言わずに。それなのに。
カップを両手で持った。温かさが、しみ込んだ。
(涙が出てはいけない。ここで出したら、全てが崩れてしまう)
でも、涙は出ていた。
カップが手の中で揺れた。蜂蜜の香りが、涙とともに、鼻を刺激した。




