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白い結婚だった夫が離婚届を破り捨てた  作者: 秋月 もみじ


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第4話 消された名前


冬灯花の香りが記録室を満たしていた。羊皮紙を整理する老係員が、古い棚から次々と綴じ込みを取り出している。乾いた香りだった。何年も、この部屋で眠っていたのだろう。王都エーレンブルクの地下にある記録室は、宮廷の全ての履歴を保管する場所だ。三年間、こんな場所に足を運ぶ理由がなかった。


「結界維持の記録ですね。こちらです」


係員が厚い木の台の上に開いた記録簿の魔力供給欄を指さした。夜間防衛結界。最近三年分の記録だ。羊皮紙の上には、細かな字で日付と供給量が記されている。一日ごと、細かく。


私は目を凝らした。


供給者の欄に記載されているのは、クラウスの名前だけだった。


息が詰まった。もう一度、確認した。供給者。供給者。ただただ、クラウス。クラウス。クラウス。


「あ、あの……」


声が出なかった。記録をなぞる指がぶれた。いや、これは。確認不足なのか。


深く呼吸した。落ち着け。私が記念に多めに供給している日々のことを思い出した。深夜、三時間置きに起きて、時には朝方まで送り続けた。あの疲労。あの夜間の、凍てついた空気。冬灯花の香りすら消える、静かな深夜。その中で、私は結界に向かって魔力を送り続けていた。


その記録が、ここにない。


あるのは、クラウスの名前だけ。供給量だけ。


「これは……何かの間違いでは」


係員に頼りない声で聞いてみた。


「いいえ。記録は正式なものです。登録された日付も古い。三年前からこのままです」


三年前。リーアがクラウスの妻として宮廷に来た日だ。


「リーアさん?」


廊下からミランダが顔を出した。若手魔導師の娘は、記録室の扉を叩かずに入ってくるほど、もう親しい間柄になっていた。この子は私の話を聞いてくれる数少ない人間だ。


「あ、ちょうど探してました。書類確認で」


ミランダが記録簿を覗き込んだ。表情が変わった。


「あ……リーアさんの名前が……」


「ありませんね」


短く返した。感情に色をつけないように。


「でも、リーアさんの魔力が夜間結界を支えていたんですよね?」


ミランダの声は怒りに満ちていた。それが余計に辛かった。私の心は虚しさで満たされている。怒るべき場面なのに、私は何を感じているのか。言語化できない。言葉が逃げていく。


「誰が変更したのか。それが重要です。公式な記録を改ざんするのは……」


ミランダが怒りに身を震わせている。その映像が、すごく遠く見えた。別の世界の出来事のように。真実は知っていた。でも、言葉にするのが怖かった。エルヴィラ。副団長。クラウスの信頼厚い副団長。


「副団長が報告書を作成している時点で……変更されたんでしょう。エルヴィラさんが。わざとか、意図せずか、それはわかりませんが」


短く、言った。感情に色をつけないように。そうしなければ、崩れてしまいそうだった。もし怒りを出したら、このまま壊れてしまう気がした。


記録室の羊皮紙を触った。表面は古いのに、つるりとしていた。手脂の膜でも張っているのか。三年分の怒りが湧くべき場面で、羊皮紙の手触りばかり気にしている。感情が追いつかないとき、手だけが別のことをする。


「許せません。報告し直させます。証人も集めます」


ミランダが握った拳がぶるぶると震えている。若手らしい、純粋な怒り。その怒りすら、私には遠い。


「してくれるんですか」


「もちろんです。リーアさんの魔力なしに、あの結界は持たない。みんな知ってます。地下の若手は。だから、黙ってない」


ミランダの目が真っ赤だった。涙が浮かんでいる。他の誰かの不当な扱いに対して、ここまで怒る人間がいるのか。この年代の娘は。新鮮だった。そして、辛かった。


その側で、私は空の記録簿を見つめていた。羊皮紙の上に、本来書かれるべき名前がない。ただ、白い余白。何も記されていない。


消された。三年間の魔力供給が、完全に消された。


でも、ミランダが知っていた。若手たちが知っていた。みんな知っていた。それなのに、なぜ記録には反映されなかったのか。


◇◇◇


宮廷に帰ってからも、その事実が頭を離れなかった。


クラウスは、この事実を知っていたのか。報告書を見たはずだ。自分の業績として、確認した。否定しなかった。あの人が、業務連絡のような無表情で、どう言ったのか。思い出してみようとしても、記憶が曖昧だった。(思い出したくない。いや、思い出せない。三年間のどの時点で、私は消されたのか)


魔導師棟の書斎に向かった。クラウスの書斎ではなく、私が使う小さなテーブルのある部屋。侍従が食事を用意していた。蜂蜜入り温め牛乳と干し葡萄のパン。いつもの組み合わせだ。二階の部屋で召し上がるんですか、と聞かれたが、ここにいさせてほしいと答えた。ここなら、誰にも見られない。


壊れそうだった。感情が形を失っていた。怒りではない。悔しさでもない。空白だった。自分という人間の中心が、穴が開いたみたいに。食事に手をつけることができなかった。温め牛乳は、すぐに冷めていった。


◇◇◇


書斎の机の上に、報告書が積み重ねられていた。最新のものを手に取った。エルヴィラの筆跡。細く、綺麗で、冷たい。


「夜間防衛結界の維持について、団長の魔力供給により……」


読んだ。報告には、確かに夜間結界の負荷軽減について記されている。「負荷を軽減し、日中の業務に支障が出ないよう配慮」。そう書かれていた。だが、その負荷軽減を誰がしたのか。その名前がゼロだった。私の存在がゼロだった。


(これ、三年分だ。三年間、私は何だったのか)


ページをめくった。別の報告書。また別の報告書。全て、クラウス。すべてクラウス。魔力供給調整、結界強化、波長安定化。全て、彼の業績。


でも、違う。これらの全てに、私が関わっていた。調整の夜、三時間おきに起きて供給を制御したのは誰か。結界が不安定になった冬、明け方まで魔力を注ぎ続けたのは誰か。波長の微調整を毎晩、壁越しに行っていたのは誰か。


(自分を消す。クラウスもエルヴィラも知っていたのか)


「……」


声が出なかった。出す言葉がない。


窓の外に、夜が降りてきた。冬灯花の香りはもう届かない。代わりに、羊皮紙の乾いた匂いだけが鼻に残っていた。記録室で感じた、その古い匂い。乾いた。冷たい。それでいて、重い。


それが、一番悔しかった。


怒りを感じたいのに、怒りが出ない。感情が純粋に怒りになれず、自分の内面に虚しさが充満している。その空白の中で、私は夫の報告書をめくり続けた。ページの数は多かった。だが、その中に自分の名前はない。一度も。一行も。


記録室で見た羊皮紙の感覚が、指に残っていた。つるりとした、古い表面。その中に消された、三年間。


名前のない三年。それが、私の宮廷での生き方だったのか。


そう思うと、また次の報告書をめくってしまった。

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