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白い結婚だった夫が離婚届を破り捨てた  作者: 秋月 もみじ


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第3話 理由を聞く権利


三年間無視されていた妻を、朝食に誘う神経が理解できない。


翌朝、部屋の扉の下に手紙が差し込まれていた。几帳面な字で「食堂に来い」とだけ書いてある。署名なし。けれどこの筆跡は壁越しに聞いたペンの音そのものだった。


(……「来い」って。朝食への誘い方として、もう少し何かあるのでは)


文句を言っても仕方がない。身支度を整え、灰色のカーディガンを羽織って部屋を出た。三年間着続けているウールのカーディガンは、さすがに袖口がほつれている。


食堂は東翼の二階にあるはずだ。はずだ、というのは——私は三年間、食堂に行ったことがなかった。食事はいつも部屋で取っていた。


廊下を歩き、階段を下りた。ここを右に曲がれば……いや、左だったか。


魔導師棟は東翼と西翼が対称に配置されている。結界の回路と同じ構造だと聞いたことがある。つまり理論上は美しいのだが、実際に歩くと、どちらに進んでいるのか全くわからない。


(……東翼の食堂に行きたいのに、なぜ西翼の倉庫の前にいるのだろう)


石壁と魔石のランプが延々と続く廊下を、私は三回曲がり損ねた。


結局、すれ違った使用人に道を教えてもらい、食堂にたどり着いたのは手紙から三十分後のことだった。


「遅い」


クラウスは窓際の席に座っていた。テーブルには麦粥が二人分。


「……申し訳ありません。道に迷いました」


「この棟に三年住んでいて、迷うのか」


正直に答えるべきか迷った。迷った。が、嘘をつく理由もない。


「……壁と魔石のランプが全部同じに見えるのです」


クラウスが一瞬黙った。何か言いかけて、やめた。


席に着いた。麦粥から湯気が立っている。白い器に盛られた麦粥は、実家で毎朝食べていたものと同じようでいて、少し違う。蜂蜜が多い。


(……食堂の麦粥のほうが、部屋に運んでもらうより温かい。当たり前だけど)


一口食べた。意外と、おいしい。蜂蜜の甘さの奥に、麦の香ばしさがしっかり残っている。


三年間、冷めかけの麦粥を一人で食べていた。温かいうちに食べるだけで、こんなに味が違うとは思わなかった。


「昨夜の件だ」


クラウスが切り出した。麦粥には手をつけていない。


「離婚の理由を、正式に聞きたい」


「申し上げた通りです。契約の目的は達成しました。結界は安定しております。私の魔力がなくても——」


「目的は達成していない」


遮られた。


「……はい?」


「契約の目的は、まだ達成されていない」


クラウスの声は淡々としていた。けれど、昨夜の震えの残滓がどこかにある。


(何のことだろう。結界は安定している。私の仕事は終わった。これ以上、何が)


「それは、どういう——」


食堂の扉が開いた。


「おはようございます、団長」


入ってきたのは、藍色のローブに銀糸の刺繍を施した女性だった。私のカーディガンとは比べものにならない仕立ての良さ。栗色の髪をきちんと結い上げ、知的な目がクラウスを真っ直ぐに見ている。


エルヴィラ・ブラント。宮廷魔導師団副団長。


名前だけは知っていた。壁越しに、クラウスが彼女の名前を何度か呟くのを聞いたことがある。「エルヴィラの報告書は正確だ」とか「エルヴィラの結界理論は筋が通っている」とか。


エルヴィラの目が私を捉えた。一瞬の品定め。そしてすぐに、にこやかな笑顔。


「あら——奥様でいらっしゃいますか? お噂はかねがね」


(噂。三年間姿を見せなかった妻の噂って、何だろう。「幽霊みたいに壁の向こうにいる」とか?)


「リーア・ライナーです。お目にかかれて光栄です、エルヴィラ副団長」


微笑んで一礼した。礼儀は実家で叩き込まれている。


「まあ、堅苦しいことは抜きにして。せっかくですから、後でお茶でもいかがですか?」


エルヴィラの声は穏やかだった。けれどその目は笑っていなかった。


(……この人は、私を「測って」いる)


何を測っているのかはわからない。けれど三年間、壁越しに人の気配だけを読み取ってきた私には、声と目の温度差がはっきりと見える。


「ありがとうございます。ぜひ」


嘘の微笑みを返した。お互いに。


エルヴィラが去った後、食堂には沈黙だけが残った。


クラウスの麦粥は冷めている。私の麦粥も、もう湯気を立てていない。


「——先ほどの話の続きを」


クラウスは口を開きかけて、止めた。


「……夜に話す。書斎に来い」


また「来い」だ。


(朝食に呼んだのに話を途中で切るなら、最初から夜に呼べばよかったのでは? この人は会話の段取りというものを知らないのだろうか)


けれど言わなかった。代わりに冷めた麦粥を食べた。蜂蜜の甘さは薄れていたけれど、一人で食べるより味がある。不思議なものだ。


向かいの席でクラウスも麦粥に手をつけた。匙の動きは正確で無駄がない。論文を書くときのペンの動きと同じだ、と思った。この人はきっと何をするにも同じリズムで、同じ精密さで、事に当たる。


それが少しだけ、おかしかった。


(……宮廷魔導師団の団長が、麦粥を食べる姿は初めて見た。人間っぽい)


壁越しに三年間聞いてきた相手は、「音」だった。ペンの音、紙の音、ため息。顔のない存在。それが今、目の前で麦粥を食べている。


妙な気分だった。


食堂を出るとき、またしても道に迷った。


今度は使用人もいない廊下で立ち尽くし、結局、壁の魔石ランプの並び方を手がかりにして自分の部屋に辿り着いた。


(……方向がわからないなら、壁に手を当てて魔力の流れを辿ればいい。結界の核は書斎の隣——つまり私の部屋の隣にある)


我ながら回りくどい帰り方だと思った。


部屋に着いて、息をついた。


窓から見える中庭の石畳に、朝日が落ちている。結界の光はまだ薄く残っていて、石の隙間に咲いた春告げ草に、かすかな青白い影を落としていた。


(「目的は達成されていない」——どういう意味だろう)


契約書を思い出す。三年前に署名したあの書類。内容は明確だった。「妻は結界の補助触媒として魔力を提供する。期間は定めない。報酬はライナー家への年金」。


これ以上の目的など、書かれていなかったはずだ。


それとも——私が読み落とした条項があるのだろうか。


(いや、書類の確認は得意だ。見落としはない。……たぶん)


夜まで考えることにした。


壁の向こうで、ペンの音が再開していた。今日の音は、いつもより少しだけ速い。焦っているのか、それとも——。


考えすぎだ。


ペンの音はただのペンの音で、それ以上の意味はない。


そう思った。三年間、ずっとそう思ってきた。

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