第2話 壁一枚の距離
壁の向こうから聞こえるのは、ペンが紙を走る音と、時折こぼれる独り言だけだった。
三年前の冬のことを思い出す。
父の書斎に呼ばれたのは、銀木犀が散り終わった十一月だった。ライナー伯爵領の屋敷は、王都エーレンブルクから馬車で三日の距離にある。冬の朝はいつも曇っていて、暖炉の白樺の薪だけが甘い匂いを立てていた。
「お前の縁談が決まった」
父はそれだけ言って、朝の麦粥を食べ続けた。匙が器に当たる音だけが、やけに大きく響いた。
相手は宮廷魔導師団の団長、クラウス・ヴェルナー。二十五歳で団長に就任した天才で、王都の結界維持を一手に担う人物。しかし結界の安定には特殊な魔力波長を持つ補助触媒が必要で——つまり私の魔力が、ということだ。
「白い結婚だ。名目上の妻として、魔力を提供するだけでいい」
(私の魔力は「家の資産」なのだと、このとき初めて知った)
ライナー家は没落しかけていた。父が必死に守ってきた家格を維持するには、宮廷との繋がりが必要だった。私の魔力は、その「繋がり」を買うための通貨だ。
反論はしなかった。反論する理由がなかった、というのが正しい。二十歳の私には、嫁ぎ先を選ぶほどの縁談も、家を出て独立するほどの実績も、なかった。
◇◇◇
王都に着いたのは十二月の半ばだった。
魔導師棟は王宮の東翼にある。石造りの重厚な建物で、廊下の天井はやけに高い。壁に掛けられた魔石のランプが、結界と同じ青白い光を放っていた。
契約結婚の初日、クラウスと交わした言葉は三つだけだった。
「書斎の隣の部屋を使え」
「毎晩、壁に手を当てて魔力を注いでくれ」
「それだけだ」
それだけだった。
彼は私の顔を見なかった。書類に目を落としたまま、業務連絡のように告げた。私はうなずいて、割り当てられた部屋に入った。
六畳ほどの部屋だった。簡素なベッドと、小さな書き物机と、窓が一つ。壁は薄く、隣の書斎の物音がよく聞こえた。
その夜から、私の「仕事」が始まった。
壁に手を当てる。目を閉じる。魔力を壁に注ぐ。壁を通して、隣の書斎にある結界の核に魔力が流れていく。
最初の夜は緊張した。魔力の制御に集中するあまり、朝になったとき足が痺れて立てなかった。
二日目は少しうまくいった。三日目にはコツを掴んだ。一週間も経てば、日課になった。
壁に手を当てると、魔力と一緒に向こう側の気配が伝わってくる。クラウスが書き物をしている振動。ページをめくる僅かな風。深夜に聞こえるため息。
「……今日は安定しているな」
時折、独り言が壁越しに届いた。結界の状態について呟いているのだろう。それ以外の言葉を、彼が私に向けることはなかった。
◇◇◇
日々は穏やかに過ぎた。穏やか、というよりは凪のように。波がないのだから、穏やかというしかない。
朝起きて、食堂には行かずに部屋で麦粥を食べる。昼は魔導師棟の図書室で本を読む。夕方、自分の部屋に戻る。夜、壁に魔力を注ぐ。眠る。
クラウスとは顔を合わせない。朝食の時間が違う。昼はクラウスが書斎に籠もっている。夜は壁を挟んで、ただ魔力だけが行き来する。
(まるで、私の存在が壁の模様と同じくらい透明なのだ)
ある朝のことだった。
壁越しにクラウスのため息が聞こえた。いつもより深い。書き物が進まないときの音だ。三ヶ月も一緒に——いや、壁を挟んで暮らしていると、音の種類で相手の状態がわかるようになる。
私はお茶を淹れた。
銀木犀の香りを足した温かいお茶。実家から持ってきた茶葉で、ライナー伯爵領では秋になるとどこの家にもこの香りが漂っていた。蓋を開けると、甘くて少しだけ苦い匂いが立ちのぼる。
(……飲んでくれるかはわからないけれど)
書斎の扉の前に、お茶を置いた。ノックはしなかった。扉の前に置いて、足音を立てずに去る。それだけ。
翌朝、器は空になっていた。
誰が飲んだのかはわからない。使用人が片付けたのかもしれない。けれどそれ以来、私は毎朝お茶を置くようになった。
銀木犀の香りが、秋を過ぎても壁の向こうに届いていたらいいと思いながら。
◇◇◇
季節が三回、巡った。
春には中庭の春告げ草が咲いた。夏には窓から入る風が生温くなった。秋には銀木犀の茶葉がなくなりかけて、実家に手紙を出した。冬には結界の光が少しだけ強くなる。魔力の消費が増えるからだ。
壁越しに聞こえるクラウスの独り言で、私は季節を知った。
「……冬の結界は負荷が大きい」——冬が来たのだと知る。
「……春の調整は予定通りか」——春が来たのだと知る。
ある夜、いつもと違う独り言が聞こえた。
「……今日は穏やかだな」
結界の状態を言っているのだろう。たしかにその日、私は穏やかだった。図書室で好きな本を見つけて、少しだけ機嫌がよかったのだ。
(結界に、私の気分が影響するのだろうか)
そんなことはない、と思った。魔力は魔力だ。感情とは関係ない。
……はずだ。
◇◇◇
そして三年が過ぎた。
離婚届を破られた翌朝、私はベッドの上で天井を見つめていた。
お茶。
置くべきだろうか。昨夜、離婚届を出した相手の扉の前に、今朝もお茶を置くのか。
(……意味がわからない。私は離婚を申し出た人間だ)
けれど身体は勝手に動いた。茶葉を量り、湯を沸かし、銀木犀の香りを足す。三年間毎日繰り返してきた動作は、思考より先に手を動かす。
器を持って廊下に出た。
書斎の前に立つ。昨夜ノックした扉。三年間で初めて叩いた扉。
(……もう、ノックの仕方は知っている)
お茶を、いつもの場所に置いた。
振り返って、自分の部屋に戻ろうとした。
ふと、足が止まった。
扉の前に、もう一つの器が置いてあった。
私のお茶の隣に。温かいお茶が、湯気を立てていた。
見覚えのない器だ。おそらく書斎の棚にあるもの。中身は——ただのお茶。銀木犀の香りはしない。無骨で、何の飾り気もない。
(……誰が置いたのだろう)
壁の向こうで、椅子が軋む音がした。
私はその器を持ち上げた。温かかった。淹れたばかりだ。
飲んだ。
味は薄い。茶葉が少なすぎる。お茶の淹れ方を知らない人間が、見よう見まねで淹れたような味だった。
(……不味い)
けれど、温かかった。
器を両手で包んだ。陶器の肌から、淹れた人の手の温度が伝わってくるような気がした。気のせいだとわかっている。けれど三年間、壁越しの気配だけで暮らしてきた人間にとって、この温度は十分すぎるほど鮮やかだった。
三年間で初めて、誰かが私のために淹れたお茶だった。
飲み干して、空の器を扉の前に戻した。隣には私が置いたお茶がある。こちらも、きっと飲んでもらえるだろう。
(……こんなことをしている場合ではない。私は離婚を申し出たのだ)
廊下を歩きながら、唇に残る薄い茶の味を舌で確かめた。
まだ少しだけ、温かかった。




