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白い結婚だった夫が離婚届を破り捨てた  作者: 秋月 もみじ


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第10話 新しい契約


藍色のローブは、思ったより重かった。でも、灰色のカーディガンよりずっと温かい。


生地が厚い。銀糸の刺繍が、重さを増している。毎朝、着るたびに、その重さを確認する。それは、負担ではなく、証だ。私がここにいるという証。一人の魔導師として、この棟に立つ資格があるという証。


朝食で、クラウスが笑った。初めて見た。彼が笑う。いや、違う。小さく口元が上がった。笑いとは呼べないかもしれない。でも、それは笑顔だった。藍色のローブを見ながら。


「似合っている」


業務連絡のような言い方で。でも、それは業務連絡ではなく、感想だった。


「ありがとうございます」


丁寧語で返した。


◇◇◇


エルヴィラが、去っていった。


調査が完了した。報告書の改ざん。記録の改竄。全てが事実として確定した。彼女の副団長の職は剥奪され、今は魔導師団から追放されている。最後に、彼女がそこに立っていた。王宮東翼の正門で。


「あなたの魔力は、努力ではない。生まれた時から、持っていたものだ」


その言葉が、最後だった。呪いのように。感嘆のように。どちらとも判じがたい言い方で。


答えた。私は。


「ええ。でも三年間注ぎ続けたのは、私の意志です」


短い言葉で。でも、全てが詰まっていた。魔力の有無ではなく、その魔力をどう使うか。それは、意志の問題だ。努力の問題だ。三年間、毎晩、壁の向こうから注ぎ続けた魔力。それは、意志だった。


エルヴィラが、何も言わずに去った。馬車が来て、彼女を乗せて、遠ざかっていった。


(本当に終わった。全てが)


◇◇◇


父から手紙が届いた。一言だった。


『勝手にしろ』


リーアは笑った。声が出て笑った。(こんなことで笑うなんて。でも、笑える。やっと笑える)


三年間、父の手のひらの上で転がされていた。婚約を強要されて。新しい嫁ぎ先を用意されて。でも、今は違う。『勝手にしろ』。つまり、もうお前のことは知らない。そういう意味だ。自分の人生を、自分で決めろ。そう言ってくれたのだ。


父にしては、珍しい優しさだった。


◇◇◇


書斎に、新しい書類が置いてあった。


婚姻契約書。新しい。黒い羊皮紙。金のインク。以前のものとは全く違う。高級だ。重要だ。丁寧だ。


クラウスが、目の前に立っていた。いつもの黒い手袋をしていない。素の手。その手で、その書類を示していた。


「新しい契約だ。前のものは、契約婚だった。けれど……」


言葉に詰まった。初めて。彼が、言葉に詰まった。報告書のような調子が、崩れた。


「……こんどは、どういった契約ですか」


聞いた。


彼が、ページをめくった。条件が、細かく書いてあった。魔導師団での職務。給与。待遇。身分。全てが、リーア・ライナーという正式な名前で。


最後のページに、一つの条項があった。


『朝食は、共にする』


その一文だけ。報告書のような条項ではなく、ただの願いのような一文。


「条件を一つ追加します」


リーアが言った。


「何だ」


聞き返した。


「朝食は、一緒に。毎日。壁を挟まずに。同じテーブルで。同じお茶を飲みながら」


言葉が、流れ出た。三年間、溜め込んでいた言葉が。


「今までは、壁越しでした。あなたの気配を感じながら。でも、これからは違いますね。同じ空間で。見守られながら。毎朝。毎朝。毎朝」


繰り返した。毎朝。その言葉を。


「わかった」


彼が言った。短く。でも、全てが含まれていた。その一言に。


契約書に、リーアのサインを入れた。自分の名前で。正式に。初めて、正式に。


クラウスがサインした。団長として。夫として。


◇◇◇


エルヴィラへの返答は、終わった。父への勝利も、終わった。


けれど、ここからが、本当の始まりなのだ。


新しい契約。新しい朝食。新しいローブ。新しい名前での職務。全てが、新しく始まった。藍色のローブの襟がきつい。(慣れてないからだろう。でも、明日には慣れているはずだ。あさってには当たり前になっているはずだ)


書斎の窓から、冬灯花が見えた。薄紫の花。結界光に照らされている。その光が、今日は、温かい色に見えた。


いや、違う。光が変わったのではなく、見える私の側が変わったのだ。壁の向こう側から。こちら側へ。三年間の距離を越えて。初めて。


朝日が、書斎に差し込んでいた。二人分の影が、床に落ちていた。一つではなく、二つ。重なることなく。でも、並んで。


「春だ」


クラウスが呟いた。


「ええ。もう春ですね」


応えた。


「春が来たから、全てが動き始めたのか。君が来たから、春が来たのか」


「どちらでもいいです。もう関係ありませんから」


笑った。初めて。こんなふうに。壁越しではなく。同じ空間で。一人の魔導師として。ライナー伯爵家の長女ではなく。ただのリーアとして。


「君の名前で呼んでいいか」


彼が言った。あの中庭で聞いた質問と、同じ言葉。あの時は答えられなかった。


「もう、呼んでください」


今度は、答えた。


「リーア」


その名前が、書斎に響いた。壁越しではなく。同じ空間で。同じ温度で。


昼前に、ミランダが訪問してきた。新しいローブを見て、嬉しそうに笑った。「似合ってます」と言った。


その時、クラウスが二人の背中を見ていた。何も言わずに。けれどその目が、柔らかかった。三年前には見たことのない目だった。


◇◇◇


結界室で、新しい勤務がスタートした。


正式な魔導師として。補助ではなく。一人の魔導師として。記録に名前が入って。給与が発生して。身分が確定して。


全てが変わった。けれど、変わらないものもある。毎晩注ぎ込む魔力の波動。そのリズムは三年間と同じだ。ただし、今は壁がない。隣で、見守られながら。


新しい朝食。毎朝、クラウスと同じテーブルで。紅茶とコーヒー。蜂蜜入り温め牛乳。干し葡萄のパン。羊のスープ。時々、林檎の焼き菓子。


「今日の結界は、安定していた」


彼が言った。業務連絡のような。でも違う。褒めているのだ。


「ありがとうございます」


応えた。


「君の名前で、報告書に記録される。三年間の遅延は、全て修正された」


「ええ。生憎、直すのに時間がかかりましたね」


笑った。壊れた時から、やっと。


春告げ草が、中庭のどこかで花を開いているのだろう。銀木犀も咲いているはずだ。冬灯花も、もう少しで見納めになる季節だ。


全てが新しく始まる季節。それが春だ。


私たちも、新しく始まった。壁を越えて。名前で呼ばれて。朝食を一緒に。


新しい契約。新しい人生。


書斎の窓から、王都エーレンブルクが見えた。朝日に照らされて、輝いている。その中で、私たちは立ち始めた。

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