第1話 三年かかったノック
書斎の扉をノックするのに、三年かかった。
正確には、三年と十一日。契約結婚の初日に「書斎の隣の部屋を使え」と告げられてから、私がこの扉に触れたのは、これが初めてだった。
手のひらに汗が滲む。離婚届を持つ指先が、微かに湿っている。
(……紙がふやける前に、済ませなくては)
くだらないことを考えている自覚はある。これから婚姻を解消しようという人間が気にすべきは、紙の状態ではなく自分の覚悟のほうだ。けれど三年間、壁越しにインクと古い紙の匂いだけを嗅いできた私には、書類の状態がどうしても気になってしまう。
職業病だ。いや、職業ですらない。ただの癖。
廊下には誰もいなかった。魔導師棟の東翼は夜になると人気がなくなる。壁に掛けられた魔石のランプが、結界と同じ青白い光を静かに落としている。この光を私は三年間、自分の部屋の窓から眺めてきた。
一度だけ深く息を吸い、扉を叩いた。二回。短く。
「……入れ」
低い声が返ってきた。三年間、壁の向こうで独り言を呟き、ペンを走らせ、時折深いため息をつく——その声の主と、今日初めて顔を合わせる。
いや、正確には二度目だ。一度目は三年前、契約書にサインをした日。あのときの彼の顔は、正直あまり覚えていない。藍色のローブと黒い手袋だけが記憶に残っている。
扉を開けると、インクの匂いが鼻腔を満たした。
壁越しにずっと嗅いでいた匂いだ。けれど扉を開けて直接嗅ぐと、こんなにも濃い。インクの下に、古い羊皮紙の乾いた匂いが混じり、さらにその奥にかすかな魔石の焦げた匂いがある。
(……三年間、この匂いの中で暮らしていたのか、この人は)
黒檀の机、壁一面の書架、魔石のランプが青白い光を落とす書斎。その中央に、宮廷魔導師団団長クラウス・ヴェルナーが座っていた。
藍色のローブに銀糸の刺繍。黒い手袋をはめた手に、羽根ペン。机の端には飲みかけの茶が置かれている。冷めきっているのが、ここからでもわかった。
顔を上げた彼が一瞬だけ動きを止めたのは、私の顔を見たからだろうか。それとも、三年間来たことのない人間が突然現れたことへの困惑だろうか。
「——リーア・ライナーか」
名前を知っていたことに、少しだけ驚いた。
(そりゃ知っているでしょう。契約書にサインした相手なのだから。でも正直、忘れていてもおかしくはなかった)
「お時間をいただきありがとうございます、クラウス様」
私は一礼して、机の上に紙を置いた。
「契約の解除をお願いいたします」
離婚届。王宮書式の正式なもの。昨夜、震えない手で丁寧に記入した。名前の横にはすでに私の署名と印がある。あとは彼のサインだけだ。
クラウスは紙を手に取り、目を落とした。読むのが速い。壁越しに聞いていた羊皮紙をめくる音と同じリズムで、彼の視線が文面を辿っていく。書架の古い本を読むときとまったく同じ速度だった。
(……人の離婚届を論文と同じ速さで読まないでほしい)
「理由は」
「契約の目的は達成いたしましたので」
嘘ではない。私の役割は「結界の補助触媒として魔力を提供すること」。三年間、毎晩欠かさず壁越しに魔力を注ぎ続けた。王都エーレンブルクを守る結界は安定している。任務は完了した。
「それだけか」
「はい」
沈黙が落ちた。魔石のランプがちりちりと小さな音を立てている。机の上の冷めた茶の水面が、かすかに揺れた。結界の振動だ。私の魔力が、今この瞬間も壁を越えて結界に注がれている。
(……サインしてください。それだけでいいのです)
私の計画は単純だった。離婚届を出す。実家に戻る。自分の魔力を使って独立した魔導師になる。壁越しの三年間は終わりにする。
ここではないどこかで、今度こそ自分の名前で生きていく。
クラウスが離婚届を両手で持った。
そして、破った。
紙が裂ける音が、静かな書斎に響いた。縦にまっすぐ、迷いのない動きで。
「……え」
声が出た。情けないほど間の抜けた声が。
(——は?)
クラウスの手を見た。破られた離婚届を握る指が——震えていた。黒い手袋の下、関節が白くなるほど力が入っている。
「……君なしでは、結界が保てない」
低い声だった。いつもの報告書を読み上げるような平坦さが、ほんの少しだけ崩れていた。語尾が揺れている。
壁越しに三年間聞いてきた声と、同じ声。
けれど今、この声には知らない音が混じっていた。独り言を呟くときの気だるさでもなく、ため息をつくときの疲労でもない。何か別のものが、声の奥に潜んでいる。
(——これは、魔力の話だろうか)
破られた離婚届の欠片が、机の上にひらひらと落ちた。インクの匂いの中に、古い紙の匂いが混じる。昨夜、私が丁寧に書いた文字が、断片になって散らばっている。「リーア・ライナー」の署名が、ちょうど半分に裂けて見えた。
「……もう一枚、用意してあります」
我ながら用意周到だと思った。計画的な人間だと言えば聞こえはいいが、実際は手が震えて一枚目を書き損じたから二枚用意しただけだ。
クラウスが、ほんの一瞬だけ目を見開いた。三年間の無関心を貫いてきた宮廷魔導師団団長が、初めて見せた人間らしい表情だった。
「……予備を持ってくるとは、思わなかった」
「生憎、書類の扱いには慣れておりますので」
平静を装って微笑んだ。膝が少しだけ震えているのは、彼には見えていないはずだ。
私は懐からもう一枚の離婚届を取り出し、机に置いた。
クラウスはそれを見つめていた。手はまだ震えている。さっき破った紙の欠片を、無意識に指先で撫でている。
「……一晩、待て」
「理由をお聞きしても?」
「理由を、聞く権利がある」
奇妙な言い方だった。私に聞く権利がある、ではない。彼が聞く権利がある、と言っている。
三年間無視していた妻の離婚理由を聞く権利が、いったいどこにあるのだろう。
(……三年間、一度もこの扉を開けてくれなかった人が)
けれど私は頷いた。一晩くらいなら、待てる。
三年間待ったのだから。
「では、明日。お返事をお聞かせください」
一礼して、書斎を出た。
背中に感じるのは、魔石のランプの青白い光と、インクの匂い。壁越しに毎晩嗅いでいた匂いと同じなのに、扉のこちら側で嗅ぐと少しだけ濃い。少しだけ温かい。
廊下を歩きながら、右手を見た。離婚届を握っていた手のひらに、紙の繊維がわずかに残っている。
汗は、もう乾いていた。
◇◇◇
部屋に戻ると、いつもの風景が待っていた。
簡素なベッドと、小さな書き物机。窓からは中庭の石畳が見下ろせる。壁の向こうは書斎で、今も微かにペンの音が聞こえる。
いつもと同じだ。何も変わらない。
ただ一つだけ違ったのは、明日の朝——書斎の前にお茶を置くかどうか、迷ったことだった。
三年間続けてきた習慣。銀木犀の香りを足した温かいお茶を、毎朝扉の前に置いておく。クラウスは一度もお礼を言わなかった。使用人の仕事だと思っているのかもしれないし、気づいてすらいないのかもしれない。
(……明日からは、もう置かなくていい)
そのはずなのに。
手が勝手に、明日の茶葉の量を数えていた。




