8_祝福の宴に落ちる影
(……えっ?)
それは、会場に満ちている称賛や嫉妬、羨望といった「通常の感情」とは明らかに異質なものでした。
数千人の人間が集うこの広大な空間。
そのどこかから、わたしだけを、まるで獲物を品定めするような……おぞましい視線を感じたのです。
わたしは、意識して微笑みを保ちながら、さりげなく会場全体を見渡しました。
煌びやかな正装の群れ。笑い声と奏でられる音楽。
一見、何の問題もないはずの祝宴の風景。
けれど、わたしの内側に眠るリリスの血が、警鐘を鳴らすようにズキリと疼きました。
わたしの心臓が早鐘を打ち始めます。
この美しく輝かしい、ヴァルテンベルクの栄光に満ちた場所。
その影に、誰かが隠れている。
(……気のせい、ではありませんわ。……誰かが、見ている。……わたしを……?)
「シャルロット……? どうかしたのか、顔色が青白いよ」
レインハルト様の黄金の瞳が、即座にわたしの異変を察知しました。
彼の指先に魔力が集まり、周囲の結界が微かに共鳴します。
わたしは、彼を心配させたくないという思いと、この底知れぬ恐怖の間で揺れ動きました。
「……いいえ、レインハルト様。……少し、幸せすぎて……立ち眩みがしただけですわ」
わたしは、彼の手を強く握り返しました。
けれど、わたしの視界の端で、一瞬だけ揺れた「漆黒の影」が、何かの予兆のように、消えることなく網膜に焼き付いて離れませんでした。
筆頭公爵家の栄華を極めた、完璧な結婚式。
けれど、何よりも素晴らしい瞬間は、祝宴の終盤に訪れました。
一度中座したわたしは、控室で待っていた乳母から大切な宝物を受け取りました。
生後八か月を迎えた、わたしたちの愛息子、リオン。
リオンは、レインハルト様と同じ漆黒の髪をふわりと揺らし、好奇心いっぱいの黄金の瞳でわたしを見つめていました。
「……さあ、リオン。パパのところへ行きましょうね」
わたしはリオンを抱き上げ、再び会場へと戻りました。
国王夫妻をはじめとする来賓たちが、一斉に注目します。
筆頭公爵家の次期後継者の初披露。
レインハルト様は、会場の入り口で待っていてくださいました。
彼は、わたしとリオンの姿を見ると、それまでの厳格な公爵としての表情を崩し、わたしたち二人を包み込むように腕を回しました。
「……待っていたよ、シャル。リオンも、お利口にしていたね」
その囁きは、大勢の来賓たちに聞かせるためのものではなく、ただわたしと息子だけに向けられた、蜂蜜のように甘い響きでした。
わたしの肩を抱く彼の手からは、所有欲に満ちた強い魔力が微かに伝わり、ドレス越しにも、その熱が伝わってくるようでしたす。
そこへ、一組の男女が静かに歩み寄ってきました。
レインハルト様の父上であるライオネル公爵閣下と、その傍らで優雅に微笑む公爵夫人です。
一週間前、あの張り詰めたお茶の席で厳しい言葉を投げかけた閣下の面影は、今やそこにはありませんでした。
「……シャルロット嬢。いや、今日からはヴァルテンベルクの娘だね。本当によくやってくれた。君の美しさは、我が家の誇りだ」
閣下の言葉に、わたしの隣でレインハルト様が微かに鼻を鳴らしました。
「僕の誇りだ」と言いたげなその横顔に、わたしは思わず笑みをこぼしてしまいます。
すると、閣下はゆっくりと、わたしの腕の中でパタパタと手を動かしているリオンへと視線を落としました。
王国を支える重鎮としての鋭い眼光が、一瞬で、孫を見守る柔和なおじい様のそれへと溶けていくのが分かりました。
「……こんにちは、リオン」
閣下は、自身の大きな、けれど節ばった指先を、リオンの小さな掌へとそっと差し出しました。
リオンは黄金の瞳をキラキラと輝かせ、何の躊躇もなく、閣下の指をきゅっと握りしめたのです。
「……おぉ、……なんという強い力だ。やはりレインハルトの子だ。ヴァルテンベルクの血を受け継いでいる。シャルロット嬢、……ありがとう。この命を守り抜いてくれたことに、心から感謝するよ」
閣下の瞳に、微かな潤みが光りました。
隣で夫人も、「まあ、リオン……なんて可愛らしいのでしょう」と、リオンの頬を慈しむように撫でました。
あんなに恐ろしく思えたライオネル閣下が、こうしてわたしたちを受け入れ、リオンの温もりに目を細めている。
その光景に、わたしの胸の奥にあった最後の不安が、春の雪のように消えていきました。
レインハルト様は、家族の和解を見届けたあと、満足げにわたしの腰を抱き寄せ、静かに、けれど揺るぎない口調で囁きました。
「……さあ、シャル。僕たちの新しい物語を、皆様に披露しよう」




