2_蜜の香り、ふたたび
それから数日後。
わたしたちは、住み慣れたエリュシオン邸を離れ、ヴァルテンベルク公爵邸へと居を移しました。
白い石造りの門をくぐった瞬間、空気の匂いが変わった気がした。
整えられた庭園の湿った土の匂い、遠くで水盤が奏でる細い水音。
屋敷の窓は高く、回廊は広く、どこまでも静かで――わたし一人なら、その静謐さに息が詰まってしまったかもしれません。
けれど、腕の中のリオンが小さく身じろぎし、わたしの胸元に頬をこすりつけた瞬間、世界は温度を取り戻す。
(ここが、これからの家になるのね)
そう思っただけで、胸の奥がふわりとほどけていきました。
新しい環境でも、レインハルト様は驚くほど献身的に育児に参加してくれました。
夜泣きのたびに、わたしを寝かせたまま彼が魔法も使ってあやし、ミルクの時間になれば、慣れた手つきで哺乳瓶を手に取り、愛おしそうにリオンにミルクを飲ませてあげる。
最強の魔導師が、エプロンを掛けて赤ん坊にミルクをあげる光景は、この屋敷の使用人たちをも驚かせましたが、わたしにとっては、それこそが何にも代えがたい「愛」の形でした。
大袈裟な言葉よりも、揺りかご越しに覗き込んだリオンの寝顔に、彼が本気で安心したような息を吐く――その一つひとつが、わたしの不安を静かに押し流してくれるのです。
そして、引っ越しから数週間が経った、ある静かな夜のこと。
リオンを寝かしつけ、月光が差し込む寝室で二人きりになったとき。
窓辺の薄いレースが夜風に揺れ、銀の光が床に波紋を作っていました。
静けさの中で聞こえるのは、遠くの時計が刻む微かな音だけ。
――そのはずだったのに。
レインハルト様がわたしを背後から抱きしめ、首筋に唇を寄せた瞬間。
「…………!」
彼の身体が、目に見えて強張りました。
「あ……、シャルの、……この香り……」
震えるような声。
わたしには自分の匂いは分かりません。
けれど、わたしの肌から一年半ぶりに、わたしたちを狂わせ、繋ぎ止めていた、あの濃厚で甘い「蜜の香り」が、じわりと、けれど確実に滲み始めたのです。
「一年半ぶりだ……。ああ、シャルロット……。……君の中で、リリスがまた、僕を呼んでいる……」
その声は震えていて、呼吸は乱れ、抑え切れない魔力が微かに滲んでいました。
レインハルト様の瞳は、もはや理知的な小公爵のものではありませんでした。
彼はわたしの耳たぶに熱い口づけを落としました。
「……っ、んっ……」
「……嬉しいよ。……君が、僕を求めてくれているという、この確かな証拠が……」
「……レインハルト様。……精気を吸われるというのに、なぜそんなに嬉しそうなのですか。……わたし、また貴方を苦しめてしまうかもしれないのに……」
わたしの問いに、彼はわたしの肩口に熱い口づけを重ね、離れがたいように息を落としながら、濡れた瞳でわたしを見上げました。
「……妻が求めてくれてるというのに、喜ばない夫はいないだろう。……吸い取ればいい、僕の魔力も、精気も、魂さえも。……その代わり、君のすべては僕のものだ」
低く、甘く、そして逃げ場を許さない響き。
レインハルト様はわたしの首筋に深く顔を埋め、鼻先でわたしの拍動を確かめるように肌をなぞりました。
「あ……っ、レインハルト、さま……っ」
「少し前から負担にならない程度に寄り添っていたけれど、やはり君の誘惑の香りに包まれながら抱くのがたまらないよ……シャル……」
彼は抱きしめる腕に力を込め、逃げ道を塞ぐようにわたしを自分の胸へ引き寄せました。
「でも、……」
「大丈夫だ。なにも心配しなくていい。……君のすべてを、僕の人生で受け止める」
その言葉は、誓いの形をしていました。
そして次の瞬間、彼の唇がわたしの唇を食む。
月光に照らされた寝室で、わたしたちは言葉より確かな温度で、確かめ合っていきました。
「……お帰り」
彼が、甘く、苦く、愛おしげに囁く。
「僕の、愛しい――」
その続きを聞く前に、わたしは彼の胸に顔を埋めました。
香りが戻った夜。
それは終わりではなく、母になったわたしと、夫になった彼が――新しい形で結び直す、静かな契約の合図だったのです。




