12_祝福の顔をした侵入者
ヴァルテンベルク公爵邸の広大な敷地の北側に位置する離れの別宮は、今やわたしとリオンにとって、世界で最も穏やかで神聖な聖域となっていました。
かつて社交界の冷たい視線に晒され、婚約者であるレインハルト様にさえ避けられていた日々が、遠い昔の出来事のように感じられます。
この別宮は、レインハルト様がわたしの心身の安寧のためにと用意してくださった場所。
ここに出入りすることを許されているのは、厳選された女性のメイドたちと、そして主人であるレインハルト様ただ一人。
男性の気配を徹底的に排したこの空間は、淫魔の血を引くわたしの本能を、この上なく静かに鎮めてくれていました。
窓から差し込む春の柔らかな陽光が、白いレースのカーテンを透かして、床に繊細な模様を描いています。
生後十か月を迎え、よちよち歩けるようになってきたリオンは、わたしの膝の上で「うー、あぅ」とご機嫌な声を上げながら、わたしの指を小さな手でぎゅっと握りしめていました。
「……ふふ。リオン、今日はとってもお利口さんね」
「奥様、リオン坊ちゃまは本当にレインハルト様に似ていらっしゃいますわ。特に、この黄金色の瞳の輝きなどは、将来が恐ろしいほどです」
傍らに控えるメイドのアンナが、目を細めて微笑みました。
わたしは彼女たちの温かな視線に包まれながら、リオンの柔らかな頬を指先でなぞります。
赤ん坊特有の、ミルクと日だまりを混ぜたような甘い匂い。
わたしの肌からかつて漂っていた、あの毒々しい蜜の香りは、この子の純粋な生命力に上書きされるようにして、今は静かに鳴りを潜めていました。
この離れでの生活は、どこまでも平穏でした。
王立学園を退学し、一人の母として、そして公爵夫人として生きる道を選んだことに、迷いはありません。
わたしの世界は今、この小さな命と、そしてわたしを愛し抜いてくれる一人の男性によって、完璧に満たされていたのですから。
午後のティータイム。
別宮のテラスに、見慣れた、けれどいつ見ても胸が高鳴るほどに美しい人影が現れました。
魔法省での公務を早々に切り上げたのであろうレインハルト様が、漆黒の外套を翻し、迷いのない足取りでこちらへと歩み寄ってきます。
「……ただいま、シャルロット。リオンも、元気にしていたかい?」
「おかえりなさいませ、レインハルト様。……ええ、リオンもパパが帰ってくるのを待っていましたわ」
レインハルト様はわたしの隣に腰を下ろすと、まずわたしの額に、そして腕の中のリオンの額に、慈しむような深い口付けを贈りました。
その黄金の瞳は、外で見せる冷徹な魔導師のそれとは打って変わり、とろけるような熱を帯びてわたしを射抜きます。
テーブルの上に並べられた、焼きたてのスコーン。
香ばしい香りが鼻をくすぐります。
わたしが手を伸ばそうとすると、レインハルト様がそれを制するように、自らスコーンを手に取りました。
「……今日は僕が君に奉仕させてほしい。いいだろう?」
「まあ、レインハルト様……」
彼は慣れない手つきながらも、丁寧にスコーンを割り、その断面にたっぷりと濃厚なクロテッドクリームと、真っ赤な苺のジャムを塗りました。
「さあ、あーんして」
「……恥ずかしいですわ」
「いいから。……君が美味しそうに食べてくれる姿を見るのが、今の僕にとって最大の癒やしなんだ」
強引に、けれどどこまでも優しく差し出されたスコーンを、わたしは顔を赤くしながら口に含みました。
口の中に広がるバターの風味と、ジャムの甘酸っぱさ。
そして、何よりもそれを食べさせてくれる彼の指先の熱。
幸せ、という言葉だけでは足りないほどの充足感が、わたしの胸をいっぱいに満たしていきます。
「……美味しい?」
「はい、とっても。……レインハルト様、ありがとうございます」
彼はわたしの口元に付いた小さなジャムの跡を、親指の腹でそっとなぞり、そのままご自身の口へと運びました。
その仕草のあまりの艶っぽさに、わたしの心臓が跳ね上がります。
そんな甘い時間の最中、離れの玄関の方で微かな騒ぎが聞こえました。
メイドの一人が、大きな、そして見事な花束を抱えて、困惑した表情で現れたのです。
それは、深い紫色をした大輪の薔薇の花束でした。
「奥様、……あ、あの……その……」
「まあ、綺麗……。今度は紫の薔薇ですの?」
わたしは純粋な驚きとともに声を上げました。
結婚式以来、友人や親戚筋からの贈り物は絶えることがありません。
宝石、ドレス、そして花。
わたしはそれらを、まだ見ぬ誰かからの純粋な「祝福」だとのんびり構えていました。
この紫の薔薇も、夕暮れのような高貴な色合いで、とても美しく見えたのです。
けれど、メイドは言いづらそうに視線を彷徨わせました。
「……差し出し人不明で……、奥様にと……」




