11_大陸中が恋い焦がれる花嫁
窓の外では、春の名残を惜しむように、ヴァルテンベルク公爵邸の広大な庭園に咲き誇る白百合が、湿り気を帯びた風にその身を揺らしていました。
昨日届いた差出人不明の髪飾りは、レインハルト様によって「解析のため」と地下の実験室へ持ち去られました。
けれど、わたしの心には、あの宝石が放っていた冷ややかな輝きが、澱のように沈んで離れませんでした。
そんな折、わたしのもとへ一通の来客を告げる報せが届きました。
「ヴァレンティーヌ伯爵家のクラリス様がお見えです」
かつて学園で、わたしの魔力の無さを誰よりも激しく蔑み、レインハルト様との婚約解消を画策したクラリス様。
けれど今の彼女の瞳には、友人――リオネルの姉としての色と、あるいは最強の魔導師に狂おしいほど愛される“不幸な令嬢”への同情が、静かに宿っていました。
応接室に現れたクラリス様は、水魔法の使い手らしい、涼やかで気品ある水色のドレスに身を包んでいました。
彼女はわたしの顔を見るなり、その青い瞳にかすかな驚きと、それ以上に深い憂いを滲ませます。
「……ごきげんよう、シャルロット様。……いえ、今はヴァルテンベルク公爵夫人とお呼びすべきでしたわね」
「クラリス様……。来てくださって嬉しいわ。そんなに畏まらないでくださいませ。わたしにとっては友人の姉君であり、学園の先輩でもあるのですから……」
わたしが微笑んで応じると、彼女は静かに首を振り、わたしの正面へ腰を下ろしました。
給仕が置いたばかりの紅茶の香りが、二人の間にふわりと漂います。
けれど彼女はその茶に口をつけることなく、組んだ指先に力を込めました。
「シャルロット様。……今日、わたくしがこちらへ伺ったのは、単なる茶飲み話のためではありませんわ。ヴァルテンベルクの強固な結界の中では、外の“音”が聞こえにくくなっているようでしたから」
「……外の、音?」
その言葉に、わたしの背筋を一筋の冷たいものが走りました。
クラリス様は、おもむろに手提げの中から数枚の新聞と、異国の言葉で綴られたパンフレットを取り出しました。
「……ご覧なさい。わたくしたちの国の新聞だけではありません。隣国、果ては海を越えた北の帝国にまで、あの大聖堂での結婚式の様子が、挿絵入りで大々的に報じられていますわ」
そこには、レインハルト様に寄り添い、光の中で微笑むわたしの姿が克明に描かれていました。
『王国の至宝、ヴァルテンベルクの月の女神』
『最強の魔導師が隠し続けた、絶世の美女』
「……学生の頃、貴女が急に美しくなっていくのを見て、わたくしは嫉妬に狂っていました。……けれど、今のこの状況は、もはや嫉妬を通り越して恐ろしいほどですわ」
クラリス様の声が、かすかに震えていました。
「貴女の美しさは、もはや一個人の領分を超えて、大陸中の男たちの幻想として独り歩きを始めています。……美しすぎることは、時として最大の罪になりますわ。特に、欲望の渦巻く社交界においては」
わたしは、机に広げられた新聞の束を、震える指先で見つめました。
わたしはただ、レインハルト様に愛され、彼とリオンとの平穏な日々を守りたかっただけ。
……けれど、私の内側からあふれ出す淫魔の魔力は、アミュレットで抑え込んでいる今でさえ、見る者の本能を無意識のうちに刺激してしまっているのでしょうか。
「……それだけではありませんわ、シャルロット様」
クラリス様の声が、さらに低くなります。
「……貴女の同級生だった、わたくしの弟リオネルのことです。あの子は毎日、騎士見習いとして詰所へ通っていますが、先日、あの子に接触してきた者がいたそうなのです」
「……リオネルに? どなたが……?」
「……正体は分かりません。けれど、リオネルの話では、身なりは良いのに、この国の貴族とはどこか雰囲気の違う男たちだったと。しつこく『シャルロット・エリュシオンの情報を教えろ』と迫ってきたそうですわ」
リオネルは、わたしが学園で孤立していた頃、唯一普通の友人として接してくれた、裏表のない優しい男の子です。
その彼が、わたしのせいで危険な目に遭わされようとしている。
その事実に、胸が締めつけられるように痛みました。
「……リオネルは『そんなもん知らねえ!』と跳ね除けたそうですが、男たちはかなりの金額を提示してきたそうですわ。……貴女の好み、日課……そして、レインハルト様が邸を空ける時間帯までも」
クラリス様は、わたしの手を自身の冷たい手でぎゅっと握りしめました。
「今のところは、貴女の狂信的なファンの暴走だと思われます。……けれど、ただの憧憬というよりは、もっと狡猾で、もっと執念深い誰かがいる。……わたくしには、空気の揺らぎの奥に、不吉な濁りが見えるのですわ」
「……クラリス様、ありがとうございます。……忠告、肝に銘じておきますわ」
クラリス様が邸を去った後、わたしは一人、夕闇の迫る応接室で立ち尽くしていました。
窓から差し込む赤い夕陽が、床に長く影を引き伸ばしています。
それはまるで、わたしを捕らえようと伸びてくる誰かの指先のように見えて、思わずその場から後ずさりました。
「……レインハルト様」
無意識のうちに、彼の名を呼んでいました。
けれど今、彼は魔法省へ出勤していらっしゃいます。
リオンの乳母も、腕の立つ護衛たちも大勢いる。
それなのに、この邸を支配しているレインハルト様の濃密な魔力の気配がない今、わたしを包み込んでいるのは、言いようのない孤独と、肌を舐めるような湿った恐怖でした。
(……誰かが、見ている。……リオネルにまで手を伸ばして、わたしを……)
わたしは左手の薬指に嵌まったイエローダイヤモンドを、右手で強く、痛いほどに握りしめました。
指輪は冷たく、静かに輝いています。
けれどその輝きさえ、迫り来る巨大な闇の前では、今にもかき消えてしまいそうな、か細い灯火のように思えました。
ふと、自分の肌から微かな“蜜の香り”が立ちのぼり始めた気がしました。
不安、恐怖。
――それらが精神を揺さぶるたびに、アミュレットで抑え込んでいた淫魔の血が、冥府の底で蠢くように目を覚まし、反応している。
わたしは、自分の身体が震えていることに気づきました。
それは寒さのせいではありません。
自分が、かつてないほど巨大な欲望の網に絡め取られようとしていること。
そして、その網を引いているのは、悪意など微塵も持たない、純粋で狂気じみた「恋」という名の怪物なのだという予感が、全身を激しく打ちのめしていました。
(……怖い。……レインハルト様……わたし、怖いですわ……っ)
わたしは、すっかり冷えた紅茶のカップを握りしめたまま、夕闇に染まっていく庭園を見つめていました。
理由のない身震いを、どうしても抑えることができなかったのです。
甘美な蜜月の楽園に、音もなく広がり始めた波紋。
それがやがて、わたしたちを飲み込むほどの大波になることを、この時のわたしは、まだ知らずにいたのでした。




