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10_楽園を蝕む、名もなき憧れ

 聖グランベル大聖堂で誓いのキスを交わしてから、数週間が経ちました。

 ヴァルテンベルク公爵邸で迎える朝は、かつてエリュシオンの屋敷の片隅で、冷たい孤独に震えていた頃のわたしには想像もできなかったほど、眩い光に満ちています。


 重厚な天蓋付きの寝台の上。

 隣で眠るレインハルト様の穏やかな寝息を聞きながら、わたしはそっと左手の薬指に輝くイエローダイヤモンドを見つめるのが日課になっていました。


 これは、レインハルト様がご自身の膨大な魔力と高純度の炭素を錬成して作り上げた、世界に一つだけのアミュレット。

 朝陽を浴びて黄金色に煌めくその石は、わたしの居場所を常に彼へ知らせると同時に、淫魔であるわたしの体質を内側から優しく、けれど強固に抑え込んでくれているのです。


「……ん、……おはよう、シャルロット」


 かすかなシーツの擦れる音とともに、レインハルト様の黄金の瞳がゆっくりと開きました。

 目覚めたばかりの彼の眼差しには、まだ理性のヴェールが薄く、その奥にある剥き出しの独占欲が、熱を帯びてわたしを射抜きます。


「おはようございます、レインハルト様。……リオンは、まだ眠っているようですわ」

「そうか。……なら、あと少しだけ、このままでいよう」


 レインハルト様はわたしの腰を引き寄せ、まだ熱の残る身体を、ご自身の逞しい胸板へと閉じ込めました。

 長い指先が首筋から肩、そして背中へとゆっくりと滑っていきます。

 慈しむように。けれど同時に、それが自分のものであると確かめるように。


 わたしたちの間に、かつての刺すような冷たさはもう微塵もありません。

 けれど、この完璧すぎる幸福の裏側に、わたしは時折、薄氷を踏むような危うさを感じることがありました。


 あまりにも深い愛。

 あまりにも純粋な執着。


 それは、何かの拍子に均衡を失えば、容易く狂気へと転じてしまいそうな、あまりに危うい感情でもあったのです。



 ***


 異変が訪れたのは、祝宴の喧騒もようやく落ち着き始めた、ある午後のティータイムでした。


 リオンを乳母に預け、邸の中庭にある東屋で、レインハルト様と久しぶりに穏やかな時間を過ごしていた時のことです。

 老執事が、困惑した面持ちで大きな黒塗りの箱を銀のトレイに載せ、わたしたちの前へ現れました。


「旦那様、……奥様宛てに、また贈り物が届いております。……差出人の名は、今回も記されておりません」

「……またか」


 レインハルト様の黄金の瞳が、一瞬で魔導師らしい鋭さを取り戻します。

 ここ数日、このような贈り物が頻繁に届くようになっていたのです。


 最初は、わたしの瞳の色を模した最高級のルビーのネックレス。

 次は、高級仕立て屋で有名な店の、透き通るような絹のショール。


 そして今回、レインハルト様が無造作に箱を開けると、そこに収められていたのは、わたしの髪の色と同じ紫色の宝石――大粒のアメジストを埋め込んだ、精緻な銀細工の髪飾りでした。

 一目で高名な職人の手によるものだと分かるほど見事な意匠で、見る者の目を奪う、気品に満ちた品です。


「……不快だな」


 レインハルト様が指先で髪飾りに触れます。

 その指先から微かな魔力が放たれ、宝石の隅々までを走査していきました。


「普通の贈り物のようですけれど……、気になられますか?」

「……ああ。だが、何もない。負の感情も、魔力的な罠も、一切検出されない。……ただ、純粋な『憧憬』と『称賛』の気配だけがある」


 吐き捨てるようなお声でした。


 普通であれば、呪いのない贈り物は喜ばしいもののはずです。

 けれど、魔導師として人の感情の揺らぎに敏感なレインハルト様にとって、この純粋すぎる好意こそが、何より不気味に映るのでしょう。


「差出人が分からない以上、本来なら処分すべきだ。……だが、この送り主はただ、あの結婚式で見せた君の光り輝く姿に……神聖な象徴として跪いているだけだ。……それが、たまらなく癪に障る」

「まあ、処分だなんて……こんなに高価なものを」

「シャル。欲しいものがあるなら、何でも言いなさい。王都中の宝飾店をすべて買い上げても構わない。……だから、そんな取るに足らない他人の贈り物など、身に着けないでくれ」

「……! ……あ……そう、ですわよね……。……ごめんなさい」


 差出人の中で、わたしは淫魔などではなく、清純な花なのでしょう。

 その無垢な勘違いゆえの執念が、呪いよりもなお執拗に、わたしたちの日常へ忍び込もうとしていました。


 わたしは、自分の左手に輝く指輪を、そっと右手で覆いました。

 この指輪があれば、レインハルト様はすぐに駆けつけてくださる。


 けれど、この指輪に宿る魔力は、物理的な攻撃や呪いには反応しても、人の静かな好意までは防いでくれません。


「……シャルロット。君は僕が守る」


 レインハルト様はわたしの手を取り、その薬指に口づけを落としました。

 祈るように。あるいは、呪いを刻みつけるように。


「この指輪の感応を、さらに強化しておこう。たとえ君が世界の果てにいても、空間をねじ曲げて、僕はその場へ現れる。……いいかい、決してこの指輪を外してはいけないよ」


 その時の彼の瞳に滲んでいたのは、送り主への怒りだけではありませんでした。

 わたしを失うことへの焦燥。

 あるいは、自分の知らない場所で、わたしが誰かの目に晒されることへの、狂おしいほどの恐怖。


 幸せな蜜月の日々。

 けれど、その小さな亀裂から、取り返しのつかない悲劇の毒が、静かに、確実に、わたしたちの楽園を侵食し始めていたのです。






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