1_香りが消えた妻に、最強魔導師は焦燥する
窓から差し込む陽光が、揺りかごの中で眠るリオンの柔らかな頬を黄金色に染めていた。
その穏やかな寝顔を見つめながら、わたしはそっと自分の胸元に手を当てた。
あの日、淫魔リリスの血が目覚めた時に感じた、あの焼けるような身体の熱。
男たちを狂わせ、レインハルト様を絶望的な独占欲へと突き動かした、噎せ返るような「蜜の香り」。
それはリオンをお腹に宿した瞬間から嘘のように消え去り、出産から半年以上が経った今も、わたしの肌に残るのは日だまりのような、どこか幼いミルクの匂いだけでした。
「……やはり、今日も香らないな」
背後から、低く、どこか切なげな声が響きました。
振り返ると、そこには書物から視線を上げ、こちらをじっと見つめるレインハルト様の姿がありました。
彼は椅子から立ち上がり、音もなくわたしの隣へ歩み寄ると、わたしの首筋に鼻を寄せ、深く息を吸い込みました。
「レインハルト様?どうなさったのかしら……?」
「ああ、すまない。……いや、君の体質が安定しているのは喜ばしいことだ。……だが、毒気が抜け、あまりに『清らか』になってしまった君を見ていると、僕だけのものだった印まで薄れていく気がして――時折、どうしようもない焦燥に駆られるんだ」
レインハルト様はわたしの腰を抱き寄せ、困ったように眉を下げて自嘲気味に笑いました。
本来なら、あの恐ろしい芳香が消えたことは、王国最強の魔導師である彼にとっても、わたしの身の安全を考えればこの上ない幸福なはずです。
けれど、彼は時折、こうして淋しげな瞳をするのでした。
あの香りにあてられ、理性をズタズタにされながらわたしを抑え込み、鎮めていたあの濃密な時間。
彼にとって、あの「毒」は、わたしと彼だけを繋ぐ、残酷で甘美な「絆」そのものだったのかもしれません。
「……あの、レインハルト様。お話がありますの」
わたしは彼の逞しい胸元にそっと手を置き、以前から心に決めていたことを口にしました。
「学園のことですけれど……わたし、このまま退学しようと思っておりますわ。……体調のこともありますし、何より今は、この子の側を離れたくありませんの」
かつては卒業することを目標にしていましたが、リオンを産み、母となった今のわたしにとって、華やかな学園の生活は遠い前世の記憶のように感じられました。
レインハルト様は少しだけ目を見開きましたが、すぐに柔らかな光を瞳に宿し、わたしの頭を優しく撫でました。
「君の判断を尊重するよ。大丈夫、何があっても僕が守るからね。……僕は君が君であれば、それでいいんだ」
彼はわたしの不安を溶かすように、穏やかな声で続けました。
「……式は予定通り、本来の君の卒業式の翌月で構わないかい?」
「ええ、それで大丈夫ですわ。ふふっ……」
婚姻前に出産を迎えため、準備も考えて式は少し先になるけれど。
今はこうしてエリュシオンの屋敷で彼がほとんど住むように寝泊りしてくれているだけで、わたしの心は満たされていました。
公爵家の嫡男でありながら、毎日欠かさずわたしの実家へ通い、リオンの成長を共に見守ってくれる彼。
「それと、できればでいいのだけれど……。体調も落ち着いてきたなら、そろそろヴァルテンベルク公爵邸に移らないか? 格式張ったことは抜きにして。……僕たちは、もう家族なんだから」
「あ……、そうですわね、……はい。いつでも。……わたしをレインハルト様のお側に置いてくださいませ」
わたしの答えに、彼は満足そうに目を細め、深く、深い口付けを贈ってくれました。
夜の帳が降りる頃。
わたしたちはリオンの揺りかごのそばを使用人に託し、薄いローブを羽織って眠りに落ちようとしていました。
後ろからわたしを抱きしめるようにして横になっていたレインハルト様の手に少し力が入る。
彼はわたしの身体を気遣い、言葉の端々まで慎重で――それでも、触れ合う指先には隠しきれない執着が混じっていました。
「……リオンに独占させておくのは、やはり僕の本能が許さないようだ」
その不器用で、どこか可愛らしい執着に、わたしは彼の柔らかな黒髪を優しく撫でてあげました。
(……レインハルト様、かわいいわ)
あんなに冷徹で、最強と謳われた魔導師が、いまはたった一人の妻と子に振り回されている。
その事実に、わたしの胸の奥は甘酸っぱい幸福感で満たされました。
……その夜、わたしの肌に、ほんの一瞬だけ――忘れていた「甘さ」が戻ってしまった気がした……。




