保険会社の想定外
タナカサクラは、自分の死が保険会社の想定外であることを、あらかじめ知っていた。
五十歳、独身、両親は他界、きょうだいなし、子どもなし、離婚歴あり。人生のほとんどを一人で完結させてきた彼女にとって、それは当然のことだった。
死亡保険金の受取人が元夫のままだったので、彼女は重い腰を上げ、保険会社に電話を入れた。
「受取人の変更をしたいのですが。親族が一人もおりません」
「では法定相続人に自動的に——」
「だから、その法定相続人がいないと言っているんです」
三社目で、サクラは悟った。保険会社の想定する「死」のモデルに、自分は含まれていない。
彼らが描くキャンバスには、必ず枕元で泣く誰かが描き込まれている。夫、妻、子、あるいは疎遠でも血の繋がった従兄弟。
だが、サクラの現実にいるのは、月に一度LINEをくれる職場の後輩、ゴミ出しの際に見かける町内会のヤマダさん、三年に一度だけ飲むサトウさん。そういう、温かいが「制度」には一ミリも食い込まない人々だ。
四社目のオペレーターに、サクラは静かに言った。
「私が死んだとき、実際に葬式を出し、遺品を片付けてくれる知人がいます。その方に保険金を渡したい」
「それは……制度上、不可能です。二親等以内という規定がございまして」
「では」とサクラは訊ねた。「私が死んだとき、受取人がいなければ、あなた方の会社はそのお金をどうするんですか」
沈黙。
「……社内規定に基づき、処理されます」
サクラは電話を切った。窓の外では、ヤマダさんがいつもの時間にゴミを出していた。
「なんだそれ」
笑えるような、泣けるような。どちらでもない顔で、彼女は最後の一社の番号を押した。
「……左様でございますか。受取人が皆無。それはお困りでしょう」
最後の一社の担当者は、驚くほど物分かりが良かった。
「特約がございます。受取人を『弊社』に指定していただくのです。その代わり、万が一の際は弊社が責任を持って、葬儀から遺品整理まで、あらゆる死後事務を代行いたします。名付けて『セルフ・フィニッシュ特約』です」
サクラは、その合理的な提案に同意した。
これならヤマダさんに迷惑をかけることもない。血縁のない誰かに金が流れるより、サービスとして消費する方がずっと納得がいった。
数十年後。
サクラは約束通り、静かに、そして誰にも看取られずにこの世を去った。
数日後、保険会社の「死後事務執行班」の男がアパートにやってきた。彼はサクラの遺言通り、ベランダで枯れかけていたベゴニアにじょうろで水をやり、冷蔵庫の中に残っていた賞味期限切れの納豆をゴミ袋に捨てた。
作業を終えた男が、ため息をついて端末にデータを入力する。
「被保険者タナカサクラ、死亡を確認。全ミッションを完了しました。保険金一千万円を執行します」
その一千万円は、規定通り「受取人」である保険会社へと支払われた。
そして、その中から「葬儀代」と「清掃代」、そして「枯れた花に水をやった社員の残業代」が差し引かれた。
驚くべきことに、計算の結果、余った金はぴったり「次回の特約開発費」として計上されることになった。
保険会社は、もう「想定外」で頭を悩ませる必要はなかった。
孤独な人間が、孤独に死ぬために、一生をかけて保険会社に金を払い続ける。
その金で、会社はまた新しい孤独な人間を勧誘するための広告を作る。
完璧な円環が完成していた。
サクラのいなくなった部屋の窓の外では、新しい住人が、いつもの時間にゴミを出していた。
(完)




