13 引きこもりの恩返し
床に広がった血の痕は、すでに掃除した。
嗅ぎなれたはずの血臭が、愛した者の亡骸から漂っていた。この事務室に漂っていた。消臭剤で念入りに消した。
大きく目を見開いたまま果てた顔を思い出す。俺に何度も見せたあの愛くるしい笑顔はどこへやら。酷い死に顔だった。
あれから数日経った今。俺は立ち直れずにいた。アリサを殺した部屋のソファーに腰かけてうなだれたまま、時間を潰していた。
深い悲しみに心がえぐられている。
こんな辛い気持ちがあったなんて。初めてだ。こんな悲痛。こんな絶望。こんな地獄。味わいたくなかった。
気が付くと嗚咽していた。三十半ばになろうかという大の男が、すすり泣いている。みっともねえが、止められない。
「アリサ……」
ぽつりと名を呟く。
アリサと過ごした時間は紛れもなく、人生で一番幸せな時間だった。
アリサのことを心底愛していた。かけがえのない存在だった。
今、自分の一部が腐れ落ちてしまったかのような、強烈な喪失感が俺を苛んでいる。
この苦しみから逃れたい。俺も死んでしまいたい。そんな気持ちになっちまう。
気がつくと俺は抱きしめられていた。カイが俺の頭を抱えていた。
「可哀そうなおじさん……」
気持ちが少し落ち着いてしまう。落ち着いてほしくなかったのに、落ち着いてしまう。
「お前に……何がわかるってんだよ……」
「わかるよ。おじさんの気持ち、俺の中に流れ込んできているんだ……」
そう言うカイも泣いていた。
「俺さ、アリサに殺されてから、アリサを恨んで成仏できずに、幽霊になって茫漠とした無為な日々を過ごしていていたけど、そんな俺の前で、おじさんはアリサを殺したんだよ。今、俺の世界が大きく変わった」
話しながら、カイが抱きしめる腕に力を込める。ガキんちょの見た目で、言葉はよく知っているな。
「俺はアリサが死んでも成仏できないみたい。おじさんに絆されちゃったんだ。可哀そうで見てられなくてさ。だから俺は、おじさんが拒んでも、俺はおじさんの傍に居続けるって決めた。俺……おじさんと出会えたこと、こうして触れ合えるようになったこと、すごく嬉しく思ってる。俺は死んでるけど、新たな命を吹き込まれたと受け止めている」
カイの話を聞きながら、俺は気持ちがさらに落ち着いてきた。落ち着きたくないってのによ。落ち着いちまったよ。
カイはカイで、辛い日々を送っていたのだろう。カイが望むなら、俺の傍にいてもいいと考えていた。
そこで俺は意識した。これは夢だ。またサイコメトリーの能力が自身に向けて暴走した、凄まじく生々しい夢だと。
***
意識が覚醒する。全身がだるい。ひどい目覚めだ。どれだけ時間が経ったかわからない。結構長い間気を失っていたたようだが。
すぐ隣にカイがいる。
「わざわざ同じ部屋に置いてくれるとは優しいこった」
おまけに止血もされている。無くなった右腕の切断面は包帯でぐるぐる巻きで、ワイヤーか何かできつく固定されている。
「そうしないとおじさんが死んじゃうって、アコーディオン婆さんに必死に訴えたんだよ。でも俺はこの通りだ。この札のせいで動けない」
カイが足元の札を指す。アコーディオン婆さんの仕業か。
「殺されずに捕まったままってのが、逆にヤバい雰囲気だな。然るべき代価なんてぬかしてやがったし、絶対ろくでもないことになるぜ。そしてその後で殺されるって流れだな」
周囲を見渡しながら、俺が言った。部屋に灯りはついたままだ。跳び箱、マット、ボールの入ったカゴなどが置かれている。俺達がいる場所、体育倉庫じゃねーか。つまりのまだあの体育館の中っぽいな。
そして扉や床にも札が何枚か貼ってある。俺が低級霊を操れないようにするためのものだな。
「おじさんを利用して何かするつもりかな。多分、スナッフ映像でも作るんだろうね。おじさんが嬲り殺しにされる様子をネットで晒しものだ。嗚呼、可哀そうなおじさん」
「怖いこと言うんじゃねーよ」
カイの言葉を聞いて笑う俺。気持ち的にはゆとりがある。
「りえは逃げきれたかな」
「あんな女どうでもいい」
りえの名を出すと途端に不機嫌になるカイ。
「どうでもよくねーよ。組織の後輩だ。面倒見ろと言われた新人だ」
「しみったれニヒリズムのボスとも通じていたじゃない」
「だがあの様子見た限り、俺達の敵ってわけでもないだろう」
などと俺達が会話を交わしていると、足音と気配が近づいてきた。
扉が開く。現れたのはヒッキーブラウンだ。カイが身構えるが、札のせいでどうにもできない。俺は拘束こそされていないが、武器も無いし、片腕でこいつに勝てるはずがない。
ヒッキーブラウンはカイの傍に寄り、足元の札をはがした。
さらには俺の銃を俺に手渡す。何やってんだ、こいつは……
「逃げろ」
ヒッキーブラウンが告げる。
「どういう了見だ……?」
「それは十一年前の僕の疑問だったぞ」
俺が問うと、ヒッキーブラウンが言った。
「鴉山、あんたはどういうつもりで十一年前、僕を殺さなかったんだ?」
「借りを返すってのか?」
ヒッキーブラウンの問いには答えず、俺は問い返した。
「そうだよ。一回だけな。僕をあの時殺さなかったあんたを、見殺しにはできない」
こいつ、こういう奴だったのか。意外と義理堅いというか……。
鬼畜極まりない殺人鬼という噂があったので、油断させた所で殺しにくるとか、そんな展開も考えちまうが。いや、無いな。それなら銃まで返しはしないだろ。
「俺はこれからどうなる予定だった?」
「色々と濡れ衣を着せられた後で、残酷な方法で処刑される予定らしい」
やっぱりそういう流れだったか……。しかしこれで助かった。
「恩に着る。じゃあな」
何とか体を起こし、ふらつきながら外に出ようとする俺。そんな俺を、カイが支えた。
「僕は初めてハズレを引かなかった。当たりを引いた。鴉山という当たりを」
カイに支えられながら歩く俺に、ヒッキーブラウンが声をかける。俺は立ち止まった。
「僕はハズレばかりの人生だった。こんな道を歩きたくなかった。こんな生き方したくなかった。そして最後に死という大ハズレを引いて、人生の幕引きとなる。あんたと戦って負けた時、殺されることを覚悟してた。それなのに、僕は生き延びた。見逃された。あの時……衝撃だった。僕を助けてくれた人なんて初めてだった。しか僕が殺そうとしていた相手に助けられた。僕にとって、本当に衝撃だった」
「俺のおかげで半身不随になったと、恨んでもいいのにな」
ヒッキーブラウンの方に振り返って、俺は言った。
「でもその状態からも奇跡的に回復して、僕はこうしてまだ生きている。また立って歩けている。鴉山、全てはあんたのおかげだ。あんたじゃなかったら僕は殺されていた。感謝している。だから、一回だけは助ける。借りを返す。だがこの次は本気で殺すから、そのつもりでいてくれ」
ヒッキーブラウンの言動を聞いて思う。こいつは殺し屋なんて絶対向いてねーな……。しかし甘いと断ずるのもどうかな。こいつにはこいつの、無視できない感情があって、こんな真似をしているわけだからな。人の心ってのは複雑だし、気持ちが強ければ強いほど、気持ちを殺し切るのは難しい。
「オッケー、ありがとさままま。これで貸し借り無しだ」
俺は礼を述べ、体育倉庫を出た。
夜だった。時刻は深夜二時だ。
「これからどうするの?」
体育館の外に出た所で、カイが尋ねる。
「カンドービルに――雪岡研究所に向かう。この腕を何とかしねーとな」
俺が答え、電話をかけた。裏通りの闇タクシーを呼んで、移動するつもりだ。ここから雪岡研究所までは、徒歩で二十分弱程度の距離だが、この状態で歩くのはしんどい。
***
ふらつく足取りで雪岡研究所に到着した後の記憶がない。どうやらそこで限界が来て、気絶しちまったようだ。
気が付くとベッドの上だった。きっとカイが、研究所の主――マッドサイエンティスト雪岡純子――を呼びだしてくれたのだろう。
失ったはずの右腕がある。包帯でぐるぐる巻きだが、確かにある。試しに指先を動かしてみると、ちゃんと動く。感触もある。
「おじさん……」
「あ、鴉山さん。おはー」
カイが心配そうに俺を覗き込んでいる。純子はいつものように屈託ない笑顔で、小さく手を振る。
「腕はどこかに捨てられていたみたいだけど、物品取り寄せの能力で呼び寄せて、繋ぎなおしたよ。完全に無くなっていたら、ゼロから作り直しで時間かかったけどー。まだ切れてそんな時間も経ってなかったから、くっつけるのも楽だったよー。明日くらいには完治すると思うけど、それまでは出来れば安静にね」
純子が状態を解説してくれた。切られた腕が一晩で完治とか。明らかに現代の医療技術の数歩先を行っているな。ゲームの宿屋かよ。
「キツい相手なら、パワーアップするって手も考えた方がいいんじゃなーい?」
もう一度実験台になれってのかよ……。純子の提案を聞き、俺は絶句したが、考えてみるとそれも有効な手ではある。
「まあ……考えておく」
しかし踏ん切りがつかず、この時点では曖昧な答えを返す。
「具体的にどういう敵だったか、今話せる?」
純子に問われた俺は、アコーディオン婆さんとヒッキーブラウンと交戦したことを話した。
「そっかー、また茶太郎君と戦っているんだ」
「茶太郎って……まさかヒッキーブラウンのことか?」
「うん」
どういうネーミングセンスだ……親はアホか? それであいつはグレたんじゃねーか? ヒッキーブラウンなんて通り名もひどいセンスだが。
「アコーディオン婆さんは、超常関係で有名な始末屋さんだよ。音楽で霊体や肉体に作用させられるし、超常の力も色々と引き起こせるんだよ。シャーマンの一族だねえ。コードネームは知ってるけど、まあ、それは教えられないかなあ」
一発屋では無く、多岐にわたる能力者か。すげー厄介だな。
「あの婆の方が曲者だ」
「そうだろうねえ」
カイの言葉に頷く純子。
「対抗策を考えておくよ。改造の準備もしておくねー」
「改造すると決めてねーぞ」
すでに改造前提の純子に、俺は溜息をつく。
雪岡研究所を後にして、外に出る。薄暗い空。夕方ではない。東から空が白んでいる。夜明けだった。
「家に帰るぞ」
「大丈夫なの?」
俺の言葉を聞き、カイが危ぶむ。
「俺の自宅まで割れているわけじゃねーからな。ま、情報組織に調べられる可能性もあるが、それならホテルに泊まるよりは、家に立てこもる方がマシだ」
「りえが敵だったり、組織内に裏切り者がいたりしたら、わからないよ?」
「そこまで疑ったら何もできねーよ」
悪い可能性を口にするカイに、俺は微笑みながら肩をすくめた。
「俺はりえは味方だと信じる。だが、はっきりはさせた方がいいな。しみったれニヒリズムのボスとの関係や、あいつの目的を」
「わかった」
俺の決定に、カイは仕方ないといった顔で承知した。




