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二つの序章

 夜の事務室。血塗れの女が荒い息をつきながら必死に床を這いずり、デスクの合間を抜けて、俺から逃れようとしている。


 俺はゆっくりと追っていく。女を冷ややかに見下ろしたまま、胸の内では悲痛と瞋恚が荒れ狂っている。

 こいつと過ごした時間は、紛れもなく俺の人生の中で一番幸せな時間だったと、強く意識する。だからこそ俺の心は今、人生の中で最も深い絶望に沈んでいる。


 事務室の電気が消える。女が消した。しかし暗闇に紛れて逃げられるほどの暗さではない。窓のカーテンも降りてない。射しこむ街の灯りで室内は十分に照らされる。この女らしくもない無様な悪足掻き。


 俺は電気をつけなおす。これから殺す女の顔を、しっかりと見届けてやりたくて。


 やがて女は観念したのか、這いずっての逃走を止め、仰向けに体を入れ替えて、俺を見た。

 女は俺を見上げ、涙を零す。零れた涙はすぐに、頬についた血と混ざってしまう。すでに俺は女を一発撃っていた。頭部から大量の血が流れ、女の美貌を赤く染めている。


 俺の腕が上がる。銃口が女の額に向けられる。


 懇願するかのような眼差し。これまで他の奴で何度も見た。視線での命乞い。

 これまでは躊躇うことなんて無かった。いや、一度躊躇ったことがあった。まだ俺が駆け出しだった頃だ。躊躇った瞬間、相手が隙をついて反撃してきて、俺が殺されかけた。俺は九死に一生を得て、それ以降は躊躇わなくなった。


 だが――俺はまた、躊躇ってしまった。固まってしまった。


 女が腕を振るう。血が飛び散る。俺の視線が遮られる。

 掌の中に血を溜めて、機会を伺っていやがった。全く大した女だ。流石は俺が惚れ込んだ女だけはある。


「俺は馬鹿なのか? 馬鹿なんだろうな」


 そして俺は自身に心底失望し、自嘲の台詞を吐く。


 銃声が響く。


 銃声は一つに聞こえた。しかし実際には二つ分の銃声だ。同時に撃たれた。

 一つは苦し紛れに撃った俺の銃。もう一つは女が隠し持っていた銃。血による目潰しが行われた瞬間、撃ってくることは予想出来ていた。


 死んだと思った。殺されたと思った。血の目潰しでひるんだものの、それは一瞬のことだ。その一瞬の隙で女に銃を抜いて撃たせる暇を与えちまった。

 俺も殺したと思う。俺は元々銃を突き付けていた。引き金を引くだけだった。


 だが――俺はどういうわけか、死んでいない。


「アリサ……?」


 血を拭い、目をゆっくりと開きながら、女の名を呼ぶ。


 まず視界に入った光景は、宙に浮かぶ六歳か七歳くらいの男児。

 宙に浮かんでいる時点で、超常の領域の存在だとわかる。そして俺にはそれ以上のこともわかった。こいつは生者じゃない。幽霊だ。


 子供の幽霊が、握った拳を開いて、俺に見せる。掌の中に銃弾があった。アリサが俺に撃った銃弾だ。この餓鬼が防いでくれたのだとすぐにわかった。

 強い霊は物理的な干渉も行える。俺自らの力で実証済みだ。俺は霊に力を与えることが出来る。しかし銃弾をキャッチするなんて、相当強い霊でないと出来ない芸当じゃないか?

 そんな疑問は、一瞬にしてどこかに消え去る。


 俺はアリサがいた場所に視線を向ける。

 額の真ん中を撃ち抜かれて、目を見開いたまま、血と脳症を撒き散らして果てた、無残な女の亡骸があった。


 アリサの――妻の亡骸を見て、胸の中で冷たい嵐が荒れ狂った。こんな気持ち、誰に理解できる? 果たして有史以来、幾人が味わった? 自分が最も愛した者に裏切られ、殺されかけて、逆に殺した今の俺の気持ちを。

 泣き叫びたい衝動に駆られる。声帯が破裂するほど慟哭してやりたいのに、声は出ない。ただ涙だけが零れる。


 途方もない虚脱感に支配された俺は、デスクに寄りかかってへたりこんで、ぼんやりと窓の外の三日月を見上げていた。


「おじさん、ありがとさままま」


 しばらくしてから、子供の幽霊が、突然意味不明な言葉を口走った。


「何が……ありがとうなんだよ……」


 意味が分からず、幽霊に向かって力無く吐き捨てる。


「おじさんの奥さんは、俺の仇なんだよ。九年前、俺はこの女――蟻塚アリサに殺されたんだ」


 子供の幽霊の話を聞いて、俺は衝撃に固まる。アリサ――どんな理由でこんな小さな餓鬼を殺したってんだよ……


「俺はカイ。苗字は知らなくていい。死んだ時の年齢は確か七歳。幽霊の時間も足せば十六歳ってことになるかな?」


 子供の幽霊が自己紹介して、俺とアリサを交互に見やる。


「俺、おじさんに御礼がしたい。おじさん、大変だったね……可哀そうに」


 憐憫の眼差しで俺を見ながら、カイがふわふわと宙を舞い、俺の傍に近づいてくる。


「これからずっと、俺がおじさんのことを護るから」

「は……?」


 啞然とする俺の手の上に小さな手を重ねてきて、このちびっこ幽霊は力強く宣言した。


 それが十一年前の話。


***


「ほっ! ほっ! ほっ! ほっ! ほーっ!」


 朝。俺の済むマンションの外で、聞きなれた声が響く。


「あのお婆さん、毎朝元気よね」


 窓の外を見て、女が微笑む。

 俺も女の隣に立ち、窓の外を見る。緑のジャージ姿の老婆だ。もう何年も前から見かける。


「生きてればそれだけで価値がある――か」

「何だそりゃ」


 女の台詞に訝る俺。その時に俺には、あまり同意できない考えに思えた。持たざる弱者の、情けない慰めの言葉に感じられた。


「養護施設の職員さんが言ってた。だから長生きするだけでもいいって。私はごめんだけどね。欲しいものを手に入れたいし、幸せになりたい。誰にも傷つけられたくない」


 喋っている間に、女が曇り顔になっていた。たまにこいつはこうなる。ろくでもない過去がなければ、傷つけられたくないなんて、わざわざ口にしないだろうな。だが、こいつは過去を語らないし、俺も聞かない。


「ねえ、九郎……。結婚しない?」


 隣の女の唐突な言葉に、俺は度肝を抜かれる。


 浅黒い肌。凛然としていて、同時にエキゾチックな容貌。野性の獣のような目つきが印象的な、俺なんかにはもったいない、いい女だ。スタイルも素晴らしい。見た目だけではなく、仕事の相棒としても非常に頼もしく、安心して背中を任せられる。

 この女と出会ったのは去年のことだ。同じ裏通りの住人。同じ組織のエージェント。パートナーとして活動しているうちに、俺達は親密な間柄になっていった。


 熱っぽい視線が間近に迫る。期待を込めた眼差し。嬉しそうな笑顔。その全てが魅力的と俺の目には映る。


「こんな世界に生きて――人並みの幸福を望みたいのか? そんなこと、出来るのか?」


 結婚なんて、そんな形式にこだわる必要があるのか? 表通りの奴等の真似事をして、それで何になるんだ? そんな拗ねた気持ちがある一方で、この女に言われると、ときめいてしまう。


「出来るよ。やろうよ。結婚しよ」


 茶目っ気に満ちた笑みを広げて、女が俺の返事を待つ。


「アリサ……。正直俺は怖い」


 いつも本心を胡麻化して喋っている俺が、自分の情けない心情を吐露する。


 いつも胡麻化している? いや、俺はこいつにだけは、いつしか自分の弱い部分も見せられるようになっていた。それくらい心を許していた。いい歳して、それくらい首ったけになっていた。


「私も九郎と同じ気持ちよ。大事なものを作るのは怖い。でもね、それはとても素晴らしいことでもあるの」


 女――蟻塚アリサは断言する。まるでそれを知っているかのように。


 俺はずっと暗闇の中で生きてきたようなものだ。アリサはそんな俺に射し込んだ光だ。


「俺が幸せなんてものを掴んでいいのか?」

「貴方だけが幸せになるわけじゃないよ。私達で作っていくのよ」


 俺の口からついてでた台詞に、アリサは力強く告げる。

 こいつは出会った時からこうだった。俺の心をくすぐる言葉ばかり吐いて、俺の心に温かい火を灯す。


 俺はアリサを抱きしめた。疑問があり、戸惑いがあり、恐怖もあったが、アリサの体温と柔らかさが、俺の心を蕩けさせ、俺のネガティブな感情をどこかに吹き飛ばしてくれた。


 それは十三年前の話。

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