美食の真理
オルフェゴラゴスの体表が、ぬらぬらとした黄色から、静謐な銀色へと変質していく。私の言葉のナイフが、この巨大な生ゴミの核にある「迷い」を正確に切り裂いている証拠かしら。
(意外と、私の毒舌論破が効いてるのかしら?)
「セレスティーヌに問う。手に入れる前は『世界で一番価値があるもの』のように思えるが、それを手に入れ、腹の中に納めた瞬間、それは『最も価値のない排泄物へのプロセス』に成り下がる。この、一瞬で価値がゼロに向かって転落する体験を何と呼ぶ?」
(排泄物? 一気に品が落ちてきて、下品になったわね。私なら黄金が土に還ると、表現するわね。)
「答えは、執着よ。」
その瞬間、オルフェゴラゴスの
体に癒着していた食材の色が、さらに輝きを増した。
「正解だ。食べる前の期待は巨大な幻想、しかし食べた後は単なる物理的な重みでしかない。グルメとは、幻影を追いかけ、手に入れた瞬間にそれをゴミに変えていく、終わりのない徒労のこと。」
(……まさに、身をもって体現しちゃったわけね。私はドレスやハイヒールを食材で作りたいとは思わないわ。ましてや、自分の肉体をゴミ箱にするなんて。……同情すら覚えるわね)
「オルフェゴラゴス。あなたは『結果(排泄物)』しか見ていない。確かに、私達が食べたものは消えてなくなる。だけど、その一瞬の『美味しい』という衝撃が、明日を生きる活力に変わるのよ。そして新たなグルメが生まれるきっかけにもなる。私やあなたが愛するグルメのね。価値がゼロになることなんてないわ。物理的な『物』が、精神的な『記憶』や『力』へと昇華されているだけよ。
その体のように、形に残るものにまだ『執着』するあなたは、消えていくものに宿る『永遠』は、一生理解できないかもしれないわ。」
オルフェゴラゴス体から、熟れすぎた果実が「ボトリ、ボトリ」と地面に落ちる数が増えていく。
「次だ。皿の上に、黄金色に輝く最高の一切れがある。君はそれを口に運び、咀嚼し、飲み込んだ。物理的には皿の上からそれは消え、君の胃の中に移動したはず。しかし、真の美食家にとって、その一切れが『最も鮮明に、かつ永遠に存在し始める』のは、飲み込んだ後のどの場所においてか?」
(この悪魔、いつまでマウント合戦を続けるつもりなのかしら。でも……食に対する解像度はとても高いわね。こんなに語り合える「最高の話し相手」が地獄にいたなんて、悪魔も意外と悪くないわね。……天で無駄に翼を生やして奇跡を安売りしている連中より、ずっとマシね。私が神になったら、無能な神や天使は全員クビにして、この喋る生ゴミを広報官にでもしてやるわ。……答えは、胃の中でも、私の血肉の中でもない。)
「喪失よ。」
「そう。形あるものが消滅した瞬間に、それは「二度と味わえない最高の味」として、脳内のイデア(理想郷)に入る。実在している間は常に変化し、劣化し、消費される対象でしかない。失われることで初めて「完璧な味」として固定される。グルメの本質は、所有ではなく「失うことによる完成」にある。」
(この悪魔、まさか……)
「『消えてしまうという残酷な事実』があるからこそ、私たちは一口を噛み締め、一瞬の火花のような喜びに魂を震わせる。いま、あなたと私がこうして語り合っているようにね。永遠に変わらない『完成』など、私たち人間には必要ない。私たちは、消えゆくものと共にある『今』を愛している。あなたも理解しているからこそ、その一部を必死に理解しようとしている。そうでしょ?」
オルフェゴラゴスの銀色が、波紋のように全身に広がっていく。
「……消えゆくからこそ、愛おしいだと? 滅びゆく種族特有の狂った審美眼だな。理解できん……到底、理解できん……。ああ、昔の我なら、迷わずそう言ったはず。だが、セレスティーヌ。君の言う通り、理解している今の我は、抗いようのない苦悩を自身の体に植え付けてしまっている。だからこそ、君とこうして語り合えたのは、実に、実に実りがあった。そして最後の問いだ。」
念動魔法によって、一筋の湯気を立てるスープが私の前に運ばれてきた。
「そのスープは、一滴も飲まなければその味を知ることはできない。しかし、最後の一滴まで飲み干したとしても、その味を誰かに伝えるための『言葉』は、スープの水分と一緒に消えてしまう。さて、このスープの『本当の味』は、一体どこに存在するのか?」
「心の中……ンフフ♪ いいえ、沈黙でしょ?」
その言葉を放った瞬間、オルフェゴラゴスの巨躯を覆っていた食材の全てが、中心へと集約していった。醜悪な肉塊は消え、そこには銀色の、荘厳で美しい、名前の付けようのない神々しい生き物が佇んでいた。
「……ああ、その通りだ、セレスティーヌ。本当に美味いものを食べた時、我々はただ『黙る』しかない。雄弁も哲学も何もいらない。言葉にした瞬間に、その輝きが思考からこぼれ落ちていく。その『語れなさ』こそが、我々が生きている証。そのもの。定義できず、解析できず、ただ圧倒的な『今』に打ちのめされる。言葉を超えた場所で震えるこの魂の鼓動こそが、生命の聖域。ありがとう、セレスティーヌ。素晴らしい食事だった。本当に、感謝する。そしてなにより、共に魂の底からグルメを愛する者同士として、我は、君にグルメという名の未来を返そう。」
「意外と、物分かりがいいのね。」
「ハハハ、さらばだ。グルメの女王よ。」
オルフェゴラゴスは一瞬で消え、私の視界は真っ白に包まれた。
……気がつくと、私は馬車の座席に座っていた。
膝の上には、冷え切ったはずの朝食が、まだ湯気を立てて置かれている。
「……セレスティーヌ様。どうかなさいましたか? ぼんやりと宙を見つめられて」
ミラーに映る、恍惚な瞳。けれどいつもの涼しげな顔をしたベレッタ。
並走するボブに乗り、駆けるアルフレッドからは「おお! 王都の門が見えてきましたぞ!」という、いつもの暑苦しい声。
そして、向かいの席には……。
「……セレスティーヌ様? 私の顔に、何かついていますか?」
ミルフィーユ姫としての気品を取り戻しつつあるハラペコニアの王女が、不思議そうに私を見ていた。呪いの人形と共に。
「……別に。ただ、少しだけ『最高の沈黙』を味わっていただけよ。……さあ、ベレッタ。王都に着いたら、まず最高のタルトを用意しなさい。私の脳が、哲学的な栄養不足で干からびそうなんだから」
「はっ! 迅速にデリバリー致します!」
窓の外、ハラペコニアの王都は、先ほどまでの地獄が嘘のように、黄金の輝きを取り戻していた。
けれど、私の胸の中には、あのオルフェゴラゴスと語り合った「語れない味」が、今も鮮明に残っている。
「……ふん。あの悪魔の言う通り、悪くない食事だったわ」
ふと隣の席に目をやると、そこには奇妙な銀のワインオープナーが置かれていた。置かれたそのオープナーを手に取り、趣味の悪い羊皮紙に書かれた文字を読む。
セレスティーヌ、君の言葉が我の迷いを切り裂いたように、このオープナーで世界のあらゆる『不味い真実』をこじ開け、君好みの『美味なる結論』へと変えるといい。
(ふん、最後まで気が利くじゃない。これで不味い安ワインも、少しはマシになるわね。)
ハラペコニアを悪魔から救い、元々戦争する気のなかったハラペコニア王に、娘と国を救ってくれたと感謝され、国賓待遇に。
でも恩義はグルメ以外でも返して貰うわ。
幾週後。
アステリアの国境線は、ハラペコニアから借り受けた「恩義の軍勢」……その実、地獄の石窯を生き抜いた筋肉兵士たちと、私の毒舌に調教された精鋭たちによって、実にあっけなく塗り替えられた。
クーデターを企てていた野心溢れる黒蜜炭酸水将軍は、ハラペコニア軍が放つ「正義のスパイス(物理)」と、アルフレッドの放つ「正義の熱気(衝撃波)」の前に、戦う前から胃もたれを起こして退散。彼らにとって私は「脱獄した罪人」だったかもしれないけれど、今の私には一国の軍事力と、悪魔すら論破した「毒舌正義」という名の屁理屈がついている。
「……さて。オーギュスト、あんたの顔を見るのも久しぶりね。相変わらず、裏切りと保身のスパイスが効いた、実に『不味そう』な表情をしているじゃない」
私は再び玉座に近い「特等席」へと舞い戻った。
再雇用したオーギュストは、冷や汗を拭いながらも、私の私室の書類仕事(と、厄介な外交問題の泥被り)という、以前よりもさらに過酷なスケープゴートの役割に精を出している。彼には一生、私の美食生活を支えるための「盾」として、その陰湿な知略を使い果たしてもらうことにした。
「セレスティーヌ様、本日のアフタヌーンティーの準備が整いましたわ。アステリアの最高級茶葉を、ハラペコニアの聖水で迅速に(デス)抽出いたしました」
傍らには、もはや影ですらなく、私の絶対的な「矛」として完成されたベレッタ。彼女の淹れる紅茶は、死の淵を覗いた後だからこそ、以前よりも深く、鋭い香りを放っている。エマもいたわね。
「……ふん。温度がほんの一度だけ高いわね。でも、旅の思い出という隠し味が効いているから、許してあげるわ」
窓の外を見れば、アルフレッドが近衛騎士たちを相手に「正義のスクワット(千回)」を強要しているのが見える。彼という最強の筋肉が王国を守っている限り、私の食事を邪魔する不届きな「食材」は、門をくぐる前にすべてミンチにされるでしょうね。
(……結局のところ、あの不快と思われた旅は、楽しかったわね)
ハラペコニアまでの様々な観光兼、毒舌グルメ旅。ハラペコニアの真っ赤な空、石窯の熱風、そしてあの銀色に輝いた「生ゴミ悪魔」との対話。
あんなに不快で、刺激的で、そして「沈黙」したくなるほど美味しい経験は、城の中に閉じこもっていたら一生味わえなかったはず。
アルフレッドには、少し感謝しなくちゃね。
彼が正義を求めるのなら、私も少し見習ってあげてもいいかもしれない。恩返し的に。
「ベレッタ、次の長期休暇の予定をパッキングしておきなさい。このアステリアを、私の胃袋を満足させるためだけの『巨大な厨房』に作り替えたら、またあの退屈な国境の外へ、お口直しに行かなきゃいけないんだから」
「御心のままに、セレスティーヌ様。世界中の美味を、セレスティーヌ様の皿の上へ迅速にデリバリーいたします」
私は、完璧に焼き上がったスコーンに、たっぷりのクロテッドクリームを載せて口に運んだ。そして、お気にのフォンダンショコラも。
罪人? 王女? 最高権力者?
そんな肩書きなんて、正直どうでもいいわ。
私はセレスティーヌ。
この世界のすべてを「味わい尽くす」ために生まれた、ただ一人の美食家
私の前に広がるテーブル(国)は、今やかつてないほど強固で、そして、どこまでも残酷に美しい光景だった。




