異変の国
馬車の揺れは、いつしか心臓の鼓動と同期するように重苦しくなっていた。
車輪が石畳を叩くたび、私の内臓は不規則に揺さぶられ、喉元までせり上がる吐気を懸命に押し殺す。手つかずのまま冷え切った朝食からは、死んだ家畜のような脂の匂いが漂っていた。呆然と眺めていた窓の外に、見たこともないような黒い猫が座っていた。その猫はなぜか私の事をじっと見てきていた。私は、向かいの席に座る「謎姫」を見つめる。
泥にまみれ、呪いに怯え、私の雑用をこなしてきたあの薄汚れた娘。煤けた頬、ひび割れた指先。しかし、その瞳の奥に、澱のように沈んでいた記憶を揺り動かす、隠しきれない気品の欠片を見た。
「……思い出したわ」
乾いた声が、狭い車内に不自然に響く。
記憶の糸を手繰り寄せる。あれは数年前の、退屈極まりない夜会だった。ハラペコニアの王族が一堂に会し、蜜のような甘い香りに満ちていた会場。そこで私のドレスにワインをこぼしそうになり、顔を青くして震えていた、あの不器用な少女。
間違いない。泥を被ってもその骨格は、ハラペコニア王国の王女、ミルフィーユそのものだった。
「あなた、ミルフィーユ姫ね」
私の言葉に、彼女が弾かれたように顔を上げた。
肯定も否定もない。だが、見開かれたその瞳がすべてを物語っていた。その瞬間、馬車が激しい衝撃と共に王都の城門前で急停止した。御者の制止も聞かず、ミルフィーユは狂ったように扉へ縋り付く。救いを求めるように窓の外へ身を乗り出し、喉をかきむしるような声で叫んだ。
「私よ! ミルフィーユよ! 今、帰ったわ! 門を開けなさい!」
しかし、返ってきたのは、鼓膜を圧迫するような重い静寂だけだった。
詰所の中にいたのは、槍を構えた兵士ではない。粗い衣を纏い、黄金色に揚げられた、等身大の**「巨大なエビフライ」**。路傍に転がっているのは、動かなくなった街の人々だ。彼らは皆、膨れ上がった巨大な果物や、艶やかに光る飴細工へと変貌を遂げ、生気のない「食材の像」となって、西日に照らされ沈黙していた。
絶句するミルフィーユの背後で、私は背筋に走る凍りつくような悪寒を感じた。
突如、空が濁った色に染まり、粘り気のある青い液体が波のように降り注いだ。それは慈雨などではない。皮膚に触れればそのまま細胞を組み換えてしまいそうな、冷徹な化学変化の飛沫
馬車が濁流に呑まれるかのような、轟音に包まれ、耳を塞ぐしかなかった。
(なぜか温かい……?)
音が止んだ時、今まで味わった事のない、恐怖が込み上げ、自分の心臓の鼓動音が頭へと響き渡っていた。
「……い、一体……。ベレッタ! アルフレッド! 今すぐ……」
私は反射的に、最強の盾と矛の名を呼んだ。声が震え、裏返る。
けれど、なぜか返事はなかった。
あのベレッタとアルフレッドから返事がない……。
私はパニックになりかけてしまった。
目を開けた時、世界は無機質な静止画へと変貌していた。
つい先刻まで隣で震えていたミルフィーユ姫の体は、幾層にも重なった冷たいパイ生地の塊へと変わり、床には、あの不気味だった呪いの人形が、硬いプラスチックのようなキャンディの棒になって転がっている。
そして――。
「……嘘でしょう?」
震える手で窓を押し開けた。
常に私の影として、誰よりも近くに控えていたベレッタは、銀色のカトラリーを無理やり固めたような、鋭利で無機質な氷細工に成り果てており、あの不滅の筋肉を誇ったアルフレッドは、「燻製肉の塊」へと変わり、かつて私を安心させた正義の瞳は、今はただ、茶褐色の表皮に塗り潰されていた。
生存者の気配がない。
ただ、王都の街の奥の方から、甘ったるく、それでいて胃の腑を掻き回すような這い寄る悪寒が漂ってくる。
一刻も早く、ここから逃げなければ。脳はそう命じているのに、私の足は、まるで目に見えないフォークに心臓ごと突き立てられたかのように、抗い難い力で「門」の向こうへと引き寄せられていった。
(一体、何が起きているいうの……)




