ストレスの臨界点
「……セレスティーヌ様、ご安心ください。貴女様の柔肌に、卑しい羽虫一匹触れさせはしませんわ」
ベレッタが、どこから取り出したのかも分からない漆黒の短刀を抜き放った。
彼女は『ウーバー・デス』で培ったであろう超人的な身のこなしで、キャンプ地の周囲を跳ね回り、飛んでいる蚊や蛾を空中ですべて一刀両断にしていった。
「……シュッ! デリバリー(殺害)完了ですわ!」
暗闇の中で、ベレッタの瞳だけが獲物を狙う獣のように光っている。虫を殺すたびに「セレスティーヌ様への献身……!」と呟く彼女の方が、正直、森の野獣よりも何倍も恐ろしかった。
焚き火と「生きている実感」
夕食の時間になった。
私の頭の中には、ギムレットのアジトで食べた『マック・ナイト』のジャンクな幸福感や、お城のシェフが丹精込めて焼き上げたフォアグラのテリーヌの味が蘇っていた。しかし、目の前に差し出されたのは、真っ黒に焦げた「何か」だった。
「さあ、召し上がれ! 私が今しがた仕留めてきた野ウサギです! 自分たちで獲った獲物を焚き火で焼く……これぞ、生きている実感というものでしょう!」
アルフレッドが差し出してきた肉の塊は、外側が炭のように黒く、内側からは……なんだか赤い汁が滴っている。
「……アルフレッド。これ、生焼けじゃない? それに、岩塩すら振ってないみたいだけど」
「素材の味を楽しむ。それこそが自然への敬意です!」
「敬意で私の胃袋は満足しないのよ。……ああ、お城のテリーヌが恋しいわ。あの滑らかな舌触り、トリュフの芳醇な香り……。それに比べて、このゴムみたいな肉は何?」
私は一口齧って、すぐにそれをベレッタの皿(というか手のひら)に押し付けた。
「ベレッタ、これあげるわ」
「あああっ!! セレスティーヌ様の食べ残し……! 聖遺物……! ありがたく、胃袋へデリバリーさせていただきますわ!!」
ベレッタが悶絶しながら生焼けの肉を飲み込む横で、私はギムレットから掠め取ってきた最高級の羽毛布団を広げようとした。せめて、眠る時くらいは「諸侯」の気分を味わいたい。
しかし、そこで私は見てしまった。
「……ねえ。ボブ、何してるの?」
私の、公爵家の紋章が入ったシルク張りの羽毛布団が、ボブの足元に敷かれていた。それだけではない。ボブは、自分の泥だらけの足をその布団で丹念に拭い、あろうことかその上で気持ちよさそうに「ぶるるっ」と鼻を鳴らして、ボロ(馬糞)を落とそうとしていた。
「おお! ボブもこの布団の柔らかさが気に入ったようですな! さすがセレスティーヌ様、馬への配慮も欠かさないとは!」
「……違う。それは、私の。私の寝床よ……。もういい、その雑巾にあげなさいよ! 汚らわしい!!」
星空の下の絶望
深夜。
結局、私はボブに寝床を奪われ、虫を狩り続けるベレッタの殺気に耐えかねて、馬車の中へと逃げ帰った。
アルフレッドは馬車の外、地面に直接寝そべって、満足げな声を上げている。
「見てください、セレスティーヌ様。あの銀河を! 自由とは、こうして天を仰いで眠ることにあるのです!」
「……虫は出るし、背中は痛いし、スキンケアの道具も足りない。おまけに布団は馬の雑巾になった。アルフレッド、これが自由なら、私は一生、窓のない地下牢で不自由な生活を送る方がマシだわ」
私の呪詛は、アルフレッドの健やかな寝息にかき消された。あいつ、もう寝てやがる。
私は馬車のシートに横たわり、無理やり目を閉じた。
ふと視線を感じて目を開けると、バックミラー越しに、ベレッタが恍惚とした表情でこちらを見つめていた。暗闇の中で、彼女の瞳だけが赤く光っている。
「おやすみなさいませ、セレスティーヌ様。貴女様の寝顔……迅速に、私の脳内アーカイブへ永久保存させていただきますわ」
「……寝られるわけないじゃない、こんな状況で」
私はグリフィンの革の防具の硬さを背中に感じながら、冷戦中の隣国にあるという、まだ見ぬ『グルメフェスティバル』の屋台料理のことだけを考え、無理やり意識を飛ばすことにした。
次の街に着いたら、絶対にアルフレッドの鎧を売って、最高級のホテルに泊まってやる。そう心に誓いながら




