ここまでの進行状況をセーブしますか?
日記って面倒くさくないですか?
手帳ってダルくないですか?
もう毎晩布団に潜って目を瞑ったその瞬間に、まぶたの裏にポップアップウィンドウが出てきてくれたらいいのに。「ここまでの進行状況をセーブしますか?」の下の《はい》《いいえ》のボタンを視線入力システムと同じ要領で眼球で選択してその時点をセーブ、時には読み返せればいいのに。なんだったら必要であればロードしてやり直せればいいのに。昔、リプレイハンバーグってありましたよね。彼はまだリプレイって叫んでるらしいですよ。あれ怖かったな。
とにかくそういうSFモドキみたいな何かが作れないかを、不必要に真面目でサボりベタな私でも作れないかを真剣に考えて、結果意外に誰でも作れちゃうなってことに気づいたっていうお話です。
最近積みゲーになっていたテレビゲームを消化している時にふと感じるのは、手動セーブと自動セーブシステムの違い。私は好みから洋ゲーをプレイすることが多いんですが、洋ゲーは自動で勝手に進行状況をセーブしてくれることが多いのに対して和ゲーはすごくプレイヤーフレンドリーな感じ。セーブスロットが沢山あってセーブスポットも随所にあって、ゲームの展開が大きく変わる手前では必ずセーブの確認があるし、なんだかすごく「セーブしている実感」がある。対する洋ゲーのオートセーブは本当に自動。毎度ゲームを閉じる時に「あれ、セーブしてなくない⁉︎ …あぁ」って何故か少し残念がる自分がいるくらいには自動で済んでいてこれはこれで楽。
この違いはなんなんですかね。文化の違いなのかな。日本人は昔から筆まめだから? 記帳したり日記をつけたりブログを書いたりする感覚の延長線上? なんてったってXをTwitterと呼び続ける国だからな。じゃあ海外は筆まめじゃないのかな。というかプレイヤーフレンドリーとは言ったものの、案外自動でセーブが済んだ方がフレンドリーなのでは?
なんてことを思ったり、もうどっちの方が好きとか言う話じゃないんですけど、そういう違いを感じます。
そして共通して感じるのはセーブデータのブラックボックス感。これは私がZ世代だからなのかな。まぁ私がゲームエンジニアだったらそんなこと絶対に思わないんでしょうけど、セーブデータって詰まるところなんなんですか? 画像データですか? 音データですか? なんだろうと最終的には0と1ですか。じゃあバイナリデータですか? 文字コードは? 何KBの保存に何秒くらいかかるんだろう?
結局楽にセーブできるからって、何がセーブされてるかも知らないで安心しちゃうんですよね。ゲームだからそれでいいんですけどね。なんだよなんか角が立つ言い方するな! 楽が一番だろ! セーブが楽しくなるセーブが主役のゲームでも作るか、もうあるのか!?(?) ないなら、どこかのインディーズスタジオかコジ○プロダクションさんかが作ってくれるでしょうよ! お願いします。なんか多分面白そう。無責任なことばっか言っちゃって困っちゃいますよね。最近消化している和ゲーがバレちゃった。まぁいいや。次、次。
最近メンタルを病んでるんですけど、調べてみると日記をつけるといいらしいですね。あと手帳。でもこれ私数年言ってて、数年頑張ってるんだけどな。マジで続かないんですよ。本当に三日坊主なんですよ。三日坊主が四日おきに来るんです。手帳と日記付けのバッチ処理ですよ。何言ってんの? 手帳もノートも沢山買って、これまで幾ら分のノートを白紙で捨てたんだろうね? せめて紙ゴミで捨てればいいのに燃えるゴミに投げちゃって、全くエコじゃないな。エコってどれくらい信用出来るの? SDGsってトレンド? トレンドじゃなくても意識はし続けろよな。
日記や手帳をつけていると、自分の輪郭が掴めてくる感じがします。五里霧中で曖昧模糊とした自分の輪郭や質量が、紙の匂い、擦れる音、ペンのインク、摩擦、色味、文字を通じて媒体──ばーいたい、紙媒体を通じて、とりあえずの存在未満の存在を保ち始めていく。触ることも見ることもできませんが、なんだかそこに“在る”感覚がしてくる。これは一つの手動セーブの形なんでしょうね。
思うと、日記や手帳をつけないでも私たちは自然、生きているうちに脳みそでオートセーブをかましているのだなと思います。今日あれやった〜これやった〜明日これやらなきゃ〜あれしたい〜って覚えますし、何日か経っても思い出せますもんね。忘れちゃうのはゲームでセーブスロットでセーブしてても同じことだし(っておいーっ、往年の銀◯女子のツッコミ)、写真とか動画とか音とかあればより鮮明に五感情報で思い出せる以上、どんなゲームのセーブよりも高解像度です。そりゃそうじゃ。突然のオ◯キド博士もいうてはりますよ。人間の脳みそはどんなコンピュータよりも緻密で高スペックなのだからと。
まぁ、ロードはできないんですけどね。
覚えてるだけで、人生のやり直しは出来ないんですけどね。
前The Beginner’s Gudeってゲームやったんですけど、あれべらぼうに面白かった。
ここまでこの文章読んでる人なら多分面白いと思う。
私めっちゃ多大な影響受けちゃってると思うもん。
今のところ、この人生で一番尾を引いているゲームです。おすすめ。知らなかったら調べてみて。
閑話休題。
日記や手帳をつけると、自分が何を考えて何を思うかが分かってくるとはよく言うんですが、そう簡単に“分かり”はしないなって思います。“思い出す”きっかけにはなりますけど、今生きてて自分が何者か分からないんだから、読み返したってすぐすぐ分かるわけないんですよ。もちろん分かることもありますよ。ありますけど。
ゲームならいいんですよ、セーブデータはロードして使ってやり直すためにあるんだから、それは“分かる”通り越して“戻る”なんです。中で何がどう保存されてるかなんてどうでもいい。でも現実は違う。過去は戻れないから振り返るしかない。賢者は過去から学ぶみたいな名言ありましたよね?なんだっけ、調べなくていいや、面倒くさいし、あぁでもこういうところか、えっと、『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』でした。なんか微妙に言いたかったことと違うしさ!ありがとうビスマルクさん。
とにかく、日記や手帳は自己管理のためにあるんであって、タイムリープのためにあるんじゃないんです。特に日記。日記はそういう曖昧なきっかけじゃなくて、もっと読めばその瞬間にハッキリとその時の自分が掴めて納得してこれが自分だったと思えるような依代であって欲しい。"存在未満の存在"じゃなく、"存在"として、そこにいた、あの時私は"在ったのだ"と思いたい。
ってそうやって、『自分だと思えるような自分でいたい』と思うと、手帳や日記は長続きしないんです。読み返すことを意識して書くと、文章は迷走していくんです。思ったことを、徒然なるままに、ひぐらし、硯に向かひて、心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく、そこはかとなく書かねば、そこに自分は“在る”ようにならない。
そんなこんなでグルグル考えているうちに、私は日記や手帳を書かなくなるわけですが、肝心なことは一つだけ。
……うーん、一つだけと言ったものの、その一つが思いつかないですね!(?)
あーあ、カッコつけて読み手を惹きつけるような文章を書こうとするからこうなるんだ。
ばーかばーか。
改めて、読み手を惹きつけるような文章を書きたい私を降臨させて続きを書くと──、
そんなこんなで、手帳や日記を上手につけようと思い始めて、五年くらい。
つけられなくなって二年くらい。
つけられない自分が嫌いになってメンタルを病んで一年目くらいの時に、ふと閃きました。
「いやいや、ゲームのセーブシステムじゃあるまいし!」と。
ゲームのセーブシステムは、自動だろうが手動だろうが我々素人にはブラックボックスです。ていうかエンジニアだって、ポンっと0と1のセーブデータを出されても直ぐにその内容は言い当てられないでしょうよ。だから私たちは、セーブスロットを作って、『これが“何時”の“何処”のセーブデータです』という思い出すきっかけの情報を画面に表示するのだし、オートセーブを作って、思い出すきっかけすら与えずに、楽してロードするんです。
で、これでいうと、私にとって、私の人生はセーブデータの繰り返しでした。過去は、脳みそのオートセーブシステムで覚えられる範囲で覚えているし、中途半端な日記や手帳は手動セーブのスロットも同然。日時が丁寧に揃えられて、気の利くページもあったり、しかも丁寧に装丁されているの、まさしくスロットっぽいじゃないですか。
ただ一つ違うのは、ゲームには一つの統一されたオペレーションシステム?があるのに対し、人生にそれはないって言うこと。全ては人間が人間都合で社会を動かすにあたって用意した後出しのルールですからね。px単位まで統一された細かいデザインルールはもちろんないし、五百年以上の歴史を誇るグレゴリウス歴やグリニッジ標準時や世界標準時間は、あってないようなもの、夜更かししたって死ぬわけじゃないので。ゲームのデザインって1pxまで計算され尽くされてこそ美しいけれど、人生は余分があってこそ生き甲斐がありますしね。(物理法則を無視して日記や手帳をつけるなら別ですよ?まぁそのレベルのルールの無視ができたらそれはそれで面白そう。え、何の話?)
そう思って私は、なんかもう、日記や手帳をお行儀よくつけることを諦めました。
裏紙とか付箋とか、ルーズリーフとか、その時目についたものに書きたいと思った時に書いて、書きたくない時には書かないことにしました。まぁ、それだけの話です。がっかりしてたとしてもあと少し付き合って。ここまで読んでくれたあなたが好きなの。お願い。
LINEのkeepメモに書いたり、ツイッターの鍵垢に書いたりもしたし、ネットに投稿する風にしてみたりもしたし。というか、文字と紙媒体に拘らずとも、絵と液晶画面でもいいわけです。書いては捨てて、書いては捨てて。消すの面倒くさかったらもうぐちゃぐちゃにしちゃったりもして。
なんなら彫刻でもいいんです。写真でもいいんです。音でもいいんです。葉の香りでも、下水道のヘドロでもいい。全てが記録であり過去であり、どう残すかは、あなた次第です!!!!!あ、野生の関だ。
日記や手帳をつけるのが面倒くさい一つの理由に、「ルールを意識すること」があると思うんです。それは、日記や手帳が善意で示してくれているレールなのかもしれないし、自分が勝手に意識して自分に課しているだけの力みかもしれない。殊更ゲームなりSNSなりインターネットなり、綺麗で美しく無駄のない秩序だったユーザーインターフェイスに毎日晒され、囲まれている私たちは、気づかないうちに自分にルールを課している、自己管理の仕方を管理されている、そんな気がしています。
だから、意識しないでいいんです。
人生はゲームじゃないんだから、いい意味で。
自分ルールもなくていい。
徒然なるままでなくていい、ひぐらしじゃなくてもいい、すずりにむかわなくてもいい。
自由気ままに、好きなようでいればそれはおそらく日記なのだし、そうしていくうちに自分を掴めるようになって、自分が何者かが分かるようにもなるのだろうと最近は思っています。思うようにしています。
そう思うと、日記や手帳をつけるハードルが少し下がる気がしませんか?
そして、そんな人生を生きる我々、人類の脳みそは、どんなコンピュータよりも素晴らしい出来なはずなのです。
日記を読み返せば、過去を振り返れば、その時その場面を全身で思い出し、思考できる。
確かにロードはできないけれど、記憶容量うん万GB、処理能力がはちゃめちゃのこのハイパー脳みそを持ってすれば、いつだってその時から、ロードも同然のやり直しができそうな気がしてきます。
どんなパソコンよりもどんなプレイステーションよりも高機能なんだから、拡張機能で日記や手帳をつければ、もう人間讃歌ですよ。ゲームよりもゲームですよ。
そんなこんなで、駄文乱文。
私はこれを一つの日記とも思って、筆を置きます。
なんでネットに投稿したんだろうな、なんで張り切ったんだろうな、なんで時々セルフツッコミしてるの? 読み返すと汚ねえ読みづらい文章。凄く作為的でむず痒く恥ずかしいけれど、校閲したくなかったのだからしょうがない。まぁこれが今、今日、この時点の私のセーブデータ。
ていうか昔はこういう癖ある文章を読むと、滑ってんな〜っつって、共感性羞恥?でいたたまれない気持ちになってたんだけどな。皆さんこう言う気持ちで文章書いていたのかもな。私幼かったな〜。今でも幼いでしょ? 死ぬまで赤ちゃんでいたいもんな。いいこといいこと。
敬具じゃないけど、敬具、なんて書いてみたりもして。
何者かにも成りたいけれど、その前に今やっと、私は私に成れてはいるのかな、そんな気もしたりして。
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ここまでの進行状況をセーブしますか?
《はい》〈いいえ〉
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おしまい!
ここまで読んでくれて、本当にありがとうございました。
お前いいやつだな!幸在らんことを!
よく寝てよく食べてよく遊んでよく働いてよく休んでください!




