02-03.王都大脱出。
婚約を破棄し、勢いで王立貴族学園を辞め、帝国の大学に留学することにした、エミリア。彼女を留学に誘ったのは、ヒロインにして男爵令嬢・イリス。
王城を出た旅装の二人は少し大きめのカバンを持って、街を行く。手続きなどをしてもらっていた使用人たちとは、別行動だ。彼らは馬車で、公爵領まで行く。エミリアたちは、帝国行きだ。だがエミリアは。
(――――! まさか、本当に)
馬車組合の前に差し掛かったとき、顔色を変えた。
「…………馬車は使えないわね。時間がかかりそうだわ。馬をどこかで買うか、借りるか……」
「あぁ~……ひょっとして出た後ですかね? 北方行き。なら」
隣を歩くイリスが。
「エミリア様、浮かない顔してますし。いいもの見せてあげます」
そう言って、エミリアを誘った。
「いいものって、どっちに行くのよ」
「南通り沿いです。貧民街の……手前くらい。何かはついての、お楽しみってことで」
「そう……ならこっちよ、イリス」
帽子を目深にかぶり、顔を伏せがちに歩くエミリアは……眉根を寄せて、奥歯を噛み、通りに素早く視線を走らせる。イリスの手を引き、するりと裏路地に入った。そのまま数度曲がって、難なく別の通りに出る。注意深く周囲を伺いながら、また裏路地へ。
「貧民街手前、か。いくつか近道を通りましょう」
「エミリア様、道に慣れていますね……?」
「何度も連れだしてもらったもの」
およそ王子と令嬢の逢瀬とは思えないほど、ジークにはいろんなところに連れ回された。さすがにスラムに入ったことはないが、この辺りも通ったことはある。エミリアはいくつか平行で南方へ向かう通りを、裏路地を通って行き来しながら進んだ。
少し大きめの通りに出た時。
「近道っていっても……どうして何度も、裏道に入るんです?」
イリスに聞かれ、エミリアは小さくため息を吐いた。僅かに感じる汗が不快だが、拭う間もなく足を進める。説明にちょうどいいものが目に入ったので、彼女は声を潜めた。
「イリス。振り向かないように、声を出さないように。右の商店の窓を見なさい」
隣で、イリスが言われた通りにしているようだ。エミリアもまた、ガラスに映る少年たちを見た。学園の制服に上着を羽織り、走り回っている彼らを。
「追手よ」
「――――!?」
イリスが、思わず口元を押さえている。エミリアは彼女が手を降ろしたのを見計らって、また手を引いた。
「どうして、わかるんです?」
「あれだけキョロキョロしていれば、何か探してるって丸わかりだし。殿下の周りで、見たことある顔だもの。狙いは、私とあなたでしょうね」
「連れ戻す気、なんでしょうか」
囁くようなイリスの声に……エミリアは、ジークの顔を思い起こす。つい数時間前までは、愛しい王子様だった彼。だがその実態は、王子という立場に溺れた愚か者だった。許せるものでは、なかった。
〝もやもや〟が胸の奥でゆらりと立ち上り、エミリアは歯を食いしばる。
(もしかしたら、とは思った。けれど本当に追ってくるなんて……しかもずいぶんな数の、追手を放って。ふふ。彼が王子だというだけで、こんなに多くの者が私たちを追いかけている……妬ましい)
先ほどの、国王と王妃の言葉によれば……それは仮初の権力だ。問題のある者どもを惹きつけるための焚火のようなもので、ただ王家が看過しているだけの幻。そんなものに動かされる者たちが、滑稽に思えて。その中心たる王子を愛していた自分が――――情けなくて。
(私は。私はお父さまにも、お母さまにも長く会えなかったというのに! あんなにご両親に思われていて! なのにジーク、あの方は……!)
エミリアの胸のうちの〝もやもや〟が。
嫉妬、と名付けたそれが。
歪む。
「エミリア様?」
「…………連れ戻す気だと考えて、捕まらないようにしたほうがいいわ」
イリスの問いかけを耳にし、エミリアは気を取り直す。無理やり、笑顔を作った。
「お別れのプレゼントをしたいって顔には、見えないでしょう?」
「……確かに」
「――――イリス。こっち」
制服を隠した少年たちを見かけ、二人はまた裏通りを駆ける。ジーク王子の手の者と思われる者たちは、そこかしこにいた。これを煙に巻き……エミリアとイリスは、王都の外れへと進む。
「王城を出てすぐの馬車組合も、待ち伏せされていたけれど……本当にこっちでいいの? イリス。馬のあてでもあるの?」
「もっといいものですよ、エミリア様」
先ほども彼女が言っていた「いいもの」。エミリアは想像がつかず、ただ足を速める。本当は使用人たちと分散し、荷物と使用人を馬車で、エミリアは馬で出るつもりだった。だがイリスの提案に乗って、追手を振り切るうちに、街はずれ近くまで来てしまった。市壁の中だし、貧民街というほどではないが、進むほどに寂れた風景になってきている。
(馬車で出るのはもう無理だから、イリスに任せるしかないけれど……大丈夫かしら。時間をかければ、その分だけ見つかる可能性は高くなる……そうなったら帝国に行くどころか、王都から出ることすらできないわ)
エミリアは不安を押し殺すように、カバンの取っ手をぎゅっと握り締める。追手の姿は見えなくなったが、手にはじっとりと汗が滲み、緊張で息も上がっていた。
(この辺りは、工場地帯ね。向こうに煙突が見えるし……ここまではあまり、来たことがない。この先はもう、スラムだし)
見渡せば、通りの近辺には薄汚れた家屋や、商店や事務所が見える程度。だが何本か通り向こうに、大きなレンガ造りの建物がいくつか建っている。エミリアがよそ見をしていると、イリスがくっと角を曲がったのが見えた。エミリアも早足で、彼女を追いかける。すると。
「おっちゃん! あれ出して!」
貧乏男爵家とはいえ、貴族の令嬢とは思えな口ぶりで、イリスが誰かに声をかけている。そこは中規模程度の工場、または倉庫の入り口のようだった。
「おんやぁ? イリスの。学園おんだされて、夜逃げかい?」
「そんなとこ。清算金は、これでいい?」
受付だか門番だかわからない男性と、イリスがやりとりしている。彼女はいくばくかの銀貨を支払っているようだった。
「ん……まぁよかろ。こっちだ、裏手に停めてある」
(停めて? 馬……よりいいものだって言ってたけど。まさか、馬車持ってるの? イリス。どうしてこんなところに)
腹の出た紳士に導かれ、建物の横の狭い通路から、奥へ。湿気と泥のような臭いが少々きつく、エミリアは顔をしかめた。少し行くと、開けた場所に出る。芝生などではなく、むき出しの地面が広がっており。
「馬車……というか、車?」
馬はおらず、車だけがぽつんと置いてあった。
「……………………車ぁ!?」