06-15.そして〝もやもや〟は解き放たれた。
表向きは、何も起きていない。
〝無才〟のイリーズが、エミリーの元へ帰ってきた。それだけだ。〝才の庭〟が城の脱出路にあるダンジョンを破壊するまでは、何事もないことになっている。
ディアンは驚くほど素直に、イリスの皇帝就任と、その後についての処断を呑んだ。ガレットがどう受け止めているかはわからなかったが、彼女も従う意向のようだ。庭の解散については、ダンジョン攻略の後で行われ、その後にすべての真相が公表される。この帝都の封鎖事件も、終わりが見えていた。
そんな中。
「それで……ヘリック皇子まで呼んで。大事な話って、何? イリス」
いつかのような、夕暮れ時の私室。イリスに呼び出されたエミリアは、緊張した面持ちで、窓の前に立つ彼女の背中を見つめていた。ヘリック皇子は、向かって左奥の壁に、背を預けている。
(嫌な予感しかしないわね……大丈夫なのかしら、イリス)
赤い日差しが、あの押し倒された日のような……不穏を思わせた。
「エミリア様」
「ヘリック皇子と、婚約してください」
「……なぜ」
震えたような、声が出た。それしか、出なかった。背を向けたイリスが、何を考えているのか……ここからでは、何もわからない。
「すべてが終わった後、挙式していただきます。伴侶がいた方が、禅譲はスムーズですから」
「イリス」
エミリアはつかつかと早足で、近寄り。
彼女の細い肩を、掴んだ。
「私はなぜ、と聞いたのよ。どのようにして、じゃないの」
「……離してください」
「答えなさい、イリス!」
〝もやもや〟が、全身で。
地獄の業火のように、燃え盛った。
一刻も落ち着いていられず、目を血走らせ、力を籠め、無理やりイリスを振り向かせる。全力で逸らされている、彼女の顔。その瞳から。
ずっと雫が、流れていた。
エミリアは、奥歯を噛み締めた。理解、したのだ。イリスの心は――――もうとっくに、限界を迎えているのだ、と。
一秒でも早く、彼女の望みを叶えなければ……イリスは壊れてしまうのだ、と。
「わたしは、皇帝に、なりました。やめても、先帝として、特別な存在、で。エミリア、さまは」
「私は実家に勘当された平民ね。じゃあなに? 皇子の妻にならなきゃ、皇妃にならなきゃ、あなたとはいられないと。そういうこと?」
イリスを救わねばならない。しかし、こんな時だからこそ――エミリアは〝もやもや〟した。
「どうして皇帝になんてなったのよ! ここまでしなくても、よかったんじゃないのッ!?」
「だってこうしないと! あなたの望みを、叶えられない!」
切り返され、エミリアは一瞬息を呑む。振り向く彼女が。泣いて必死なイリスが――美しくて。夕日に煌めくようで。
「わたしと一緒に、頂点に並び立つって! エミリア様の望みを、叶えられないッ!」
だからこそ。
「こんなどぶの底みたいな頂点がどこにあるのよッ!!」
「っ!?」
こんな選択は、許せなかった。眩いイリスの立つ場所は、そこじゃない。皇帝でも構わない。しかし。
「私と一緒に、並び立ちたいと言うなら! その願いを叶えたいと言うなら!」
自分の隣でないのは。
「私を娶ると言いなさいよ、イリスッ!」
絶対に、許せない。
「あ、え?」
考えてもいなかった……イリスはそんな顔だ。瞳が揺れて視線が泳ぎ、唇がわななき、肩に少しの震えがある。その可憐な姿が。
さらに〝もやもや〟を熱く鋭く、燃え上がらせる。
「あなたは皇帝でしょうが! それが押し通せないとでも言うの!?」
「でも、その、そんなこと言ったら」
イリスは怯えるように、つかえながら言葉を零して。
「エミリア、様に。嫌われ、る」
俯いた。
「あなたは私に嫌われたいの?」
諭すように、エミリアは問いかける。イリスの首が、ゆっくりと横に振られた。
「じゃあどうされたいの」
「いえま、せん。いったら」
エミリアは。
もう――――我慢できなかった。
「私はあなたに、愛されたい」
イリスの顔が、ゆっくりと上がる。濡れた青い瞳が見える。視線が吸い寄せられ、鼓動が跳ね上がった。身の内で燃え上がる〝もやもや〟が、熱と脈動を忙しく運んでいる。イリスだけしか、目に入らない。遠い風の音も、耳に入らない。
「嫌われたくない。離れたくない。何でもしてあげたい。何されたっていい。全部が幸せで、全部が楽しくて、何もかも許せる!」
溢れ出る。〝もやもや〟が口から。
「ええ、あなたが私をヘリックと結婚させたくてたまらないのなら! 他の男のものにさせたくて仕方がないというなら! 喜んで受けるわよ! どうなの!?」
「そんなことありません! 絶対に嫌です!」
同じ望みが、イリスの口からも返った気がして。
エミリアは歓喜に打ち震えて。
叫んだ。
「じゃあ言いなさい! 私に何をしてほしいか! 何を望んでいるか! あなたに望まれないと! あなたの願いを叶えられないと、私は、私は! 気が狂いそうなのよッ!」
「わたしも、わたしも! エミリア様の願いを叶えたい! お望みを叶えたい! あなたに――――」
「あいして、ほしい。エミリア」
肩から手を離し、イリスの頬と右手で、髪を左手で撫でる。
「王国では、叶えてあげられなかった。いえ……世界中どこでも、望まれても、叶えてあげられなかった。だからずっと、我慢してきた。気が狂いそうなほど〝もやもや〟しても、ずっと……!」
〝もやもや〟が全身を包んでいるようだった。
暖かで、輝くようなオーラが。
エミリアの体を。
包んでいるようだった。
「言えなかった。言っちゃダメだと思ってた。ジーク王子もいたし、私は彼を、愛していて。でも!」
魂が外にでているかのようで。それを目にしたエミリアは、想いを言葉にするのが止まらない。
「王子と結ばれたのに、ずっと追放した悪役令嬢を、気にかけていて。民に尽くして、子どもにも恵まれず、あっという間に世を去って。あんまりだった。そんなヒロインの未来が。あんなに輝かしいあなたに! そんな未来が待ってるなんて! あんまりで!」
前世で見たイリスのその後が。二作目で語られた末路が。体から出た〝もやもや〟の奥に見えている。
それはずっと秘してきた、エミリアの執着の形。
記憶と共に世界を渡った、執念。
本当の、願い。
「私はあなたを助けたくて、この世界にやってきたのよ! イリス! ずっと、出逢った時から! あなたを知った前世から!」
〝もやもや〟に火が灯る。光が灯る。見開く青い瞳の前で。彼女の見せるような輝きが、エミリアから溢れ出る。
〝もやもや〟とは。エミリアの魔力。心そのもの。
その想いは。
「愛してる!」
イリスへの愛で、できていた。
「わたしも、です。わたしもです、エミリア様……!」
眩い輝きを、イリスもまた溢れさせる。
見つめ合い、抱きしめ合う。
力強く、繊細に。
赤みを増した夕日と、差し込む日差しのもたらす熱が、ほどよく体を包み込んで。
「水を差すぞ。この国では、お前たちは結婚できない」
そこに冷や水が、浴びせられた。
「ヘリック……いえ、皇帝なら」
「皇帝でも、だ。婚姻は基幹法……竜との十の約定から成り立ってる。はっきりと〝男女〟と記されており、覆すのは皇帝でも不可だ。精霊竜と契約を交わし直し、国を作り直すしか、ない」
エミリアが返すも、影の中の皇子は淡々と返してきた。腕の中のイリスも、小さく頷いでいる。
「そう。でも、もう後戻りできないわ……」
だがエミリアの決意は、固かった。
「私の中の〝もやもや〟が、イリスを求めてる。死ぬか、愛するか。それしかないのよ」
「わたしもです。精霊竜を倒せばいいんですね? 伝説で初代皇帝がやったように」
「やめてくれ……お前たちは無事でも、アレに暴れられたら国や民が無事じゃあ済まない」
二人の強い意思を乗せた言葉に、呆れたような声が応える。影の中から姿を現した赤毛の皇子が、その身を夕焼けに照らされていた。
「スキルの衝動、か。常軌を逸してるな。オレもエミリアは愛している、つもりだが――――あー、張り合わんよ。一方的に殺されるだけだ。さすがにごめんだね」
「…………あなたの望みは、なんだったの? ヘリック」
エミリアが尋ねると。
「父上は、海が好きだったんだ」
ヘリックは迷いなく答えた。
「海軍も整備して、海の向こうに希望を見ていた。ディアンは諸国を巡りたいと言っていた。アイーナは社会に革新をもたらしたいと常々。マナは…………まぁそれで」
手で頭をかいて、肩を竦めて。気恥ずかしそうに、しかしその赤い瞳に。
「オレは家族が小さな望みを叶えていられれば、それで満足だったんだ。家族同士が望みを引き裂き合うのが、我慢ならなかった。それだけだ」
強い怒りを……あるいは望みを詰めて。
(あ、もしかして)
エミリアは気づき、腕の中のイリスを見た。彼女が、ヘリックの望みを踏まえていたのなら……ディアンを追放したのは。
「イリス。父とディアンへの処置は感謝している。だがこれ以上は、力になれない。どこかに国でも作って、幸せになるんだな」
「そうします。帝位はお返ししますので」
「仕事が済んでからにしてくれ。そういう約束だろう」
やはり二人、示し合わせてのことのようだ。背中を向けて扉に向かい、歩み去るヘリックを見送って。
(これからが大変だわ。なんとか帝国を二人で去って。どこかに……安住の地を、見つけるか、作って。でも、やるべきことは決まった。あとは、やり方だけ……)
エミリアは再び、イリスを抱きしめる。
「エミリア様」
肩に頬を寄せる彼女の言い様が、少しおかしくて。
「……まだ様付けなの?」
「ずっとそうです」
「これからも?」
「はい」
「そう。イリス……」
「エミリア様……」
赤い夕陽の差す中。
二人の影が、重なった。




