06-08.ここでモテ期に来られても。
侵入した資料室で、眠っていたはずの皇帝に突然抱き着かれ――――。
「アイーナ、俺は……!」
もがこうとしたエミリアは、ぴたりと動きを止めた。彼の声が……まるで。
泣いている、ようだったから。
抱きしめる腕が、力強い。肩の下にこすりつけられる額や頬骨が、少し痛くて。遠慮なく密着させられた体が、少し熱い。彼が肩で荒く息をして、その音が伝わってくる。だがエミリアはその呼吸が……徐々に自分のものと、区別がつかなくなってきた。
鼓動が高鳴っている。顔には熱が上がって、耳の奥には血の流れる音が感じられた。息も、荒い。肩は動かせないが、半開きの口が、胸が、どん欲に酸素を求めていた。
「っ。エミリア、か……?」
どれほど、時間が経っただろうか。少し落ち着いたディアンの声が、遠慮がちに伝わってきた。
「エイミーです。どれだけ他の女と間違えれば、気が済む、のか」
「悪ぃ」
悪いと言いながら……ディアンが一度緩めた腕の力を、確かにもう一度込めた。エミリアは思わず、胸の下に回った彼の腕を抱いて……手の甲を撫で、二度叩く。拘束がゆっくりと解かれるのを待ってから、半歩前に出て。
振り返った。
(アイーナ……亡くなった第一皇女の名前だわ)
目元を手で押さえている、ディアンの姿がある。深い息が、明らかに疲れを見せていた。エミリアは視線を彷徨わせ……ふと。目に留まったディアンの腕を見て。その力強さを、思い出して。
「…………お姉さん、好きだったのね」
そう、零した。
彼の手の下から、片目だけが見えて。口元とともに、惑いを見せていた。
「女の勘ってやつか? エミリー」
「皇帝が嫁も迎えないのを許されてるのは、なんでよ」
勘と言えば勘だが、さすがに根拠があった。ディアンは偶然とはいえ女性しかいない〝才の庭〟を抱えながら、彼女たちには手を出さないという。はっきりと公言はしていないものの、メンバーにはそう伝えているらしかった。もちろん、エミリアも言われている。「お前を抱く気はない」と、どこか豪快に。あるいは、突き放すように。
(うそつき)
エミリアは言葉を飲み込み、非難がましい目でディアンをじっと見つめる。
「あー……そうさ。俺のわがままだ。アイーナを殺した親父に呑ませた、俺の、な」
彼はぶっきらぼうに言い、目元から手をどけた。その瞳を見て、エミリアはぎょっとする。
「ちょっと、なにこれ。化粧で誤魔化してたの……? いつから寝てないのよ」
ディアンノ目の下。塗り物が少し崩れ、どす黒いクマが見えていた。
「知らねぇ」
「陛下は、どうして、そこまで……」
「ディアン」
強く。
どこか縋るように言われた。
「お前は俺と同じ、プラチナランクだ。上下はない」
名前で呼べ、ということなのだろうか。前後の脈絡が分からず、エミリアは戸惑って眉根を寄せる。
「今日休んで、明日になったら……正式採用だ。〝無才〟の子がいるんだろう? 呼び寄せて構わない。その代わり」
ディアンはため息を吐き出し、首を振っていた。
「ここで生きるなら、俺を呼び捨てにしろ。人前でもな」
ようやく話が飲み込め、しかしエミリアはより強く眉根を寄せる。
(ようやくイリスを呼び寄せられる……でも呼び捨てって。確かに、庭の人たちは皆ゴールドランク以下。スキル絶対主義に則るなら、私はディアンと対等、だけど……それって)
胸元のブローチ、イリスとの絆の証を握り締め。
(私に妃にでも、なれという気?)
エミリアは奥歯を、噛みしめた。
「なにそれ。人に聞かれたら、ずいぶん、勘違いされそうじゃない」
「――――勘違いじゃない、と言ったら?」
その皇帝の言葉に。
なぜかエミリアは、ふっと安堵を覚えた。
笑みを漏らし、鼻で笑う。
「下手な冗談ね」
「チッ、可愛げがねぇ」
「デリカシーのないあなたが悪いのよ、ディアン」
名前で呼んでやると、皇帝は思いのほか満足したのか、肩を震わせて笑った。エミリアは。
(ま、そうよね。示しがつかないし……お姉さんを愛していたなら、なおのこと。しかも相手が死んでいるなら、私が入り込む、余地なんて)
心の言葉に、少しの寂しさが、混じるのを感じて。
(…………違う。私は)
「別に今、どうこうしようという気はない。だが……」
その隙に。隙間に。
「俺は本気だ。エミリー」
燃えるような、怒りのような、情念を感じる視線を。
鋭く、深く、刺しこまれた。
息を呑む。胸を押さえる。ブローチを強く握り締める。太ももの力が抜けて、膝が折れそうで……僅かに足を下げて、無理やり自分を支えた。
全身を駆け抜けた動揺に、耐えられなくて。
「ディアン……?」
「冗談だ」という言葉を期待して……名前を呼ぶ。
「アイーナはいつまでも、俺の心を縛る。それは美談だが、俺としちゃあ苦しいだけだ」
しかし、今度は茶化されなかった。むしろそれは、前に彼が語った、本心を思わせて。その苦しさが……嫌でも、伝わってくる。
「私に開放させようっていう気? ごめんだわ」
逃れるように、エミリアは強がる。
だがディアンの視線は。
「――――ジークとは、別れたんだろう?」
まだエミリアを、離していなかった。
「……知らない話ね」
「そうかい。お前に相手がいなければ、俺はどっちだっていい」
少しの躊躇いと共に、返事を零す。彼の返答は、投げやりだった。
「私の心は」
エミリアは、戸惑って。しかし。
その胸の奥に。確かに――――〝もやもや〟を感じて。
「もう愛とか恋とかのものじゃ、ないのよ」
それは何とも言えない、想いだった。嫉妬かもしれない。だが不確かで。確実なのは、それが。
イリスにだけ、向いているということ。
エミリアは足に力を籠め、息を吸い、腹に力を入れ、立った。ふわふわしたよくわからない、自分の想いを――――イリスへの〝もやもや〟に支えられて。
「……悪かった。忘れてくれ」
ディアンが笑っている。本気とも嘘もつかない、いつもの〝皇帝の笑い〟だった。そのまま彼は、ソファーにごろり、と転がる。
「もうひと眠りする。一時間ほどしたら、起こしてほしい」
「ちょ、私に頼むの!?」
冗談かと思い、エミリアは思わず声を上げる。そんなのはガレットあたりに言えば、喜んでやりそうなものだが。
「庭の皆には、俺から仕事を振ってる」
「業務ってわけ? それこそ明日から――――」
どうもエミリアご指名らしかった。しかも、抗議の言葉の最中に。
(寝てる……)
あっという間に、寝息をたてはじめた。信じられないものを見た気分で、エミリアは頬を引くつかせてから、深くため息を吐き出す。
(ほんと、最低な気分。モテればモテるほど、胸が苦しくなるわ……)
ヘリックに、ディアン。立て続けに好意を匂わされ、エミリアは辟易していた。乙女ゲームを楽しんでいた前世の頃ならばともかく、顔がよくて地位の高い男の誘いなど。
(ジーク様……)
うんざりだった。胸が痛くて、たまらない。エミリアはもう一度ため息を吐き……ソファーの隅に、腰を下ろす。まるで一人分、わざと開けられたような空間に、深く。右を向くと、眠るディアンの顔。たくましい肩や背中が、背もたれに預けられていて。脚がだらしなく、投げ出されている。
油断のし過ぎ――――そう思ったが。エミリアもまた、背もたれに、ひじ掛けに、寄り掛かった。
「…………困ったことに、信頼はできる男なのよね。それとも、私が甘く見ている、だけかしら」
ジークや、ヘリックなら……ここまでそばにいれば、もっと緊張を感じる。仮に眠っていたとしても、だ。少なくとも、ジーク王子に対しては、いつもそうだった。だがディアンに対しては、それがまったくない。怖さや力強さもある男だ。だがどうしてもそれ以上に……深い悲しみと弱さが、ちらつく。
エミリアは。何かを払うように、頭を振って。
(一時間、か。寝ちゃったら、起きられるかな)
目を、閉じた。
★ ★ ★
「どう、して。エミリア、様…………」
資料室に、もう一人忍び込んでいたことに――――エミリアは気づかなかった。




