06-05.黄昏時の皇帝陛下。
皇帝ディアンは扉を閉めると、なぜか軽やかにステップを踏みながら近づいてきた。
「邪魔するぜ、エメリー」
「エミリーです、陛下」
名前を間違えて決め顔のディアン。エミリアが頬を引くつかせていると。
「おう、悪ぃな。おっ、紅茶の残りはっけーん。勝手にいただくぜ」
(うわ気持ち悪っ。私のじゃなくてよかった……)
どかり、と彼はソファーに腰を下ろした。エミリアは皇帝を、静かに睨む。
「そう怖い顔すんなって」
(するわよ。あなたの後ろに……)
エミリアはディアンから視線を逸らさないようにし、気配を読み取ろうと意識を滑らせる。皇帝の真後ろ。窓際に。
(イリスが隠れてるんだから)
友の存在を、感じた。
(見つかったら、どうなる? この皇帝ボコして逃げる……?)
ディアンが呑気に、ガレットの飲み残しに口をつけている。冷めた香りに鼻を鳴らし、ぐいっと一口に飲みきっていた。
(……皇帝をほどほどに追い払う。彼の注意を私に引きつけ、イリスに気づかれないようにする。万が一の場合は……倒して逃げる。よし)
皇帝は自分で、ポットからお代わりを注いでいる。すぐ出ていく気は、なさそうだった。エミリアは……腹の底で、覚悟を決めた。
「そんなに見つめるなよ……照れるぜ」
(睨んでるのよ無敵かっ)
人の神経を逆なでしてくるディアンを再び睨み、エミリアは彼の正面のソファーに腰かける。
「ガレットから話は聞いたんだろう?」
「ええ」
急に本題らしきものに入ったディアンに対し、エミリアは。
(ん? 説明ではなく、話?)
心の中で、首を傾げた。才の庭の説明ではなく、ガレットの話と言えば。
思い当たるものは。
エミリアはぐっと膝の上で手を握り締め……奥歯を噛みしめて、言葉を待つ。
「じゃあ俺からも聞こう」
皇帝が深く息を吐き。
ぼそり、と呟きを吐き出した。
「この国は、どうなる」
「滅びる」
耳朶を揺らした苦鳴のような言葉に、間髪入れずエミリアは答える。ディアンが目を丸くして、それから笑い出した。
「たはーっ! こりゃたまらんね。どう滅びる?」
口調は惚けていたが、ディアンの目が。
(笑って、いない)
エミリアは背筋に汗が流れるのを感じ。
細く息を、整えた。
「貴族が一斉独立」
「だろうな。西方はそんな機運だったか?」
「私はド平民だから、そんなことはわからないわ。伝手もないし。けれど」
ぐっとおなかに力を入れて。エミリアは皇帝を、見据える。
「少し考えれば、わかるでしょう?」
「――――いいね」
ディアンは今度こそ、口調通りに態度を緩めた。続く言葉はなく。だからエミリアは。
「だから……別の国を、帝国にするの?」
つい、疑問を口にしていた。
「それが帝国主義ってやつだ」
「そう」
呟き、それっきり。「別の国」のうち少なくとも一つは、オレン王国だ。帝国の王国攻めがただの噂ではなく本気だと理解し、エミリアは悟られないように表情を消した。
「俺には姉がいた。そりゃあもう、滅茶苦茶な奴でよ」
ぐでーんと背もたれに体を預けた皇帝が、唐突に語り出す。
(姉……第一皇女かしら? 確か、亡くなったって……)
「あいつが皇帝になるべきだった。今でも、そう思ってる」
思い返していたエミリアに、ぼそっと言葉が届いて。胸に刺さった。ハッとした。
彼が――――まるで、泣いているようで。
油断ならない皇帝が。男が。
涙を隠して、いるようで。
思わずほうっと息が出て。
瞬きが増え、目が潤み。
戸惑うように。
視線が。
泳いだ。
「俺や親父じゃあ、滅びるだけだ」
「なんとかしようとは、思わないの?」
エミリアは急かされたかのように、言葉を紡ぐ。この男は、敵だ。口が裂けても、手伝いたいなどは、言えない。だが言わないように――――奥歯を噛みしめなければ、ならなかった。
不思議な胸の鼓動を感じ、エミリアはブローチを握り締め……抑えようと、隠そうと、努める。
「俺がなんとかしたいのは、同胞たちだけだ」
ディアンが身を起こし、前のめりになって。僅かに顔を逸らす。エミリアはぎょっとした。ハッとして、息を呑んだ。
「俺は――――精霊に愛された同胞たちの不遇に、耐えられない」
彼の瞳から。つぅっと雫が、垂れていた。
「先行きを思うと不安になる! どれほど考えても良い未来が見えない! 寝ても覚めても! 石を投げられる未来しか! 姉ちゃんが!」
涙を拭うことなく、皇帝が吠える。吐き捨てる。エミリアは、胸が殴られているように、痛くて。苦しくて。ただ必死に庇うように、自分の体を抱きしめる。
「首を斬られたあいつが。未来で、待ってる」
恨み言のようだったが。
ディアンは顔まで、泣いていた。
慈しみと、優しさが、溢れていて。
「もう一度姉に会いたい」と。
その涙が、語っていた。
「俺は同胞との絆を捨てない。お前にも……できれば手伝ってほしい。エミリア」
「私はエミリーよ。名前を間違えないで」
エミリアは奥歯を噛みしめ、間を置かず切り返す。彼の言葉に、圧倒された。迫力があった。気持ちがこもっていた。胸が……痛かった。だからこそ。
負けられない。そう、思った。
「…………悪かった、エミリー。じゃあな、ごっそさん」
すっとディアンが、立ち上がる。彼はエミリアの横を、通り過ぎ。
「お前くらい頭がよければ…………いや。なんでもない」
そう少しだけ、零した。
ドアが開き。
閉じて。
(見抜かれてる……彼、前に王国来たことあるしね。印象は変えてるはずだけど、覚えてる、か。けど名前を言い直したということは、追求する気はないということ。それより……)
エミリアはゆっくりと、振り返る。扉の向こうを、眺めて。その向こうに、まだ彼がいる気がして。胸の奥に……少しの熱があるような、気がして。
「私に何を、期待してるっていうのよ」
「そりゃ、エミリア様なら期待できるでしょう」
「うぉぅうぉう!?」
後ろから声が飛んできて、エミリアは跳び上がった。振り向くと、夕日を背景にイリスが立ち尽くしている。肩の力が、抜けて。青い瞳だけが、らんらんと輝いて見えた。
「イリ……イリス? なんか怒ってる?」
「怒ってません」
「でも」
「わたし、帰ります」
「あ、うん……」
イリスが背を向ける。どうも、テラスに出て、そこから城の外へ向かうようだ。
「……楽しそうでしたね、エミリア様。皇帝と話してて」
窓に手を掛けた彼女に、そう言われ。
「へ?」
エミリアは間抜けな声を、無意識に出した。彼女の横顔に、目が吸い寄せられる。
「絆されたんですか?」
「いや、別に。どうして?」
イリスの目は。ぐっと細められ、はっと開かれ。また睨むように……すいっと細くなった。
「本当に、楽しそうで。彼に感情移入、してるみたいでした」
「そんなこと……」
「ありますよ!」
目をぎゅっと閉じた彼女が、叫ぶ。エミリアは目を丸くし、息を呑んだ。
「イリス?」
「……ごめんなさい。でも。わたし、いつもエミリア様を、見てるから。間違えません」
窓が開く。イリスがバルコニーへと出て。
「おやすみなさい」
「あっ」
すぐに窓を、閉じた。
(…………いつも見てるっていうなら。もうちょっと。もうちょっとだけ、いてよ)
一人残されたエミリアは、呆然と夕日を眺める。眩しさの向こうに、すぐにイリスが、消えて。
(……何怒ってるの? イリス。教えてよ……私、わかんないよ)
引き留めればよかったと――――ずいぶん経ってから、後悔した。




