01-03.回避したはずの断罪。
賭け事は、苦手なのだけど――――エミリアは舞踏会に向かいながら、そんな呟きを飲み込みんだ。大学でのあの日から、しばらく。エミリアはジークに、呼び出された。
しずしずと歩いてきたエミリアは、胸元のブローチに触れ、そっとため息を吐いて俯いた。扉の前で、足を止める。結った髪と、布を重ねたドレスが重たい。服の留め具が外れてないかを密かに確かめ、扉が開くのを待った。
「私は……悪役すらやめた、無才の娘。何の取り柄も、ない。きっとこうなることは……決まっていたのよ」
エミリアは喉からせり上がるものをこらえきれず、そっと声を漏らす。誰にも聞こえないよう、慎重に。少しの震えを、混ぜながら。
エミリアは弱気を払うように首を振り、開いた扉の中へ向かって歩みだした。
(お慕いしています、ジーク様。どうか)
令嬢令息に道を譲られながら、使用人を置いて、エミリアは真っ直ぐダンスホール中央を目指す。天井の大きなシャンデリアには、ゆらゆらと灯りが輝き、しかし歩むうちに見えなくなる。視界の端を窺えば、密やかにエミリアを見て何事かを囁く者たち。目を伏せがちに下へ向けると、複雑な刺繍が描かれた見事な絨毯が広がっていて……目的の人物の、足先が視界の中に入った。
(どうか私を、信じて。あなたの愛を、信じさせて――――)
エミリアは白い手袋に包まれた両手を、胸の下でぎゅっと握り締める。心臓が早鐘のように鳴り、鼓動が口から飛び出しそうだった。声と息を漏らさぬように奥歯を噛みしめ、慎重に視線を上げる。目に映るのは、すらっとした脚、装飾煌びやかな装いに包まれた胸元と肩。甘い口元は、今は引き結ばれていて。澄んだ青い瞳が、睨むように細められていた。
「ジーク、様。エミリア、参りました」
オレン王国、ジーク第二王子。彼が髪を払うように顔を僅かに上向け、エミリアを見下すように視線を下ろした。その金糸の揺れが、止まり。
王子の、愛しい婚約者の、指が。
(ああ……これは、やはり。私、やっぱり。賭け事は……苦手だわ)
真っ直ぐに、エミリアに向かって突きつけられた。
「パーシカム公爵令嬢エミリア・クラメンス! 君との婚約は、破棄する!」
それは婚約者に選ばれた日、聞くことはないと確信していた言葉。訪れないはずの断罪は、しかしやってきてしまった。エミリアは取り繕うように、取り乱すように、瞳の端に涙を浮かべて口を開く。だが唇は震えるばかり、喉は強張るばかりで、なかなか言葉を発しない。
(終わって、しまった。私の恋が、ゲームが。こんなに、あっさり。あの日々は、なんだったというの)
恋心を塗りつぶす、胸の奥のもやもやが、邪魔で。
何も、言えない。
「異論はないな? エミリア」
重ねられた、問いかけに。
あるいは、彼の周りにいる、取り巻きたちを見て。
(そう……結局この方にとって、他人なんて。ならちゃんとお別れを告げて――――)
エミリアはふっと、肩の力が緩んだ。
(終わりに、しましょう)
無意識にブローチを握っていた手が。
離れる。
「殿下は――――羨ましいです」
「なに?」
一筋の涙が流れたが、エミリアは笑顔だった。対する王子は、眉根を寄せて頬を歪めている。
「国有数の公爵家の娘との婚約を、ご勝手に破談できるなんて。第二王子でも、その恩恵にあずかれるほどの……オレン王家の繁栄は。喜ばしい限りです」
「皮肉か? 私が、私の婚約を破棄して、何の問題がある」
(ああ、やはり。やっぱり大人へは、何の根回しもされてないのね)
ホールの奥。別の出口付近から、幾人かの者が慌てふためき、扉から出ていくのが見えている。エミリアは細く息を吸い、穏やかにほほ笑んだ。
「皮肉だなんて、とんでもございません」
そう、皮肉ではない。ジークは承認欲求が高く、羨んだり褒めたりすると、感情が昂りやすいのだ。だから「羨ましい」と、そう言っているだけである。
彼が〝拒絶〟を選択した以上、エミリアは手を抜くつもりが、なかった。
「しかし理由もなく、破棄に踏み切れるその胆力。羨ましく思いますわ」
「理由がない、だと?」
エミリアが続けると案の定、王子は怒りの表情を鋭くした。
「あるとも! 才女イリスをいじめる女を、無才の君を! 王族に連ねるなど許されぬのだ!」
「羨ましい……そのお話、殿下が直接お調べになったわけでは、ないのでしょう? たくさんのことを囁いてくれる、ご友人がいて。やはり私、羨んでしまいます」
冷静さを欠いていくジークを見つめながら、エミリアは冷たく囁く。彼の両隣の令息たちを見れば、その手にはボロボロの本や、ドレスがあった。
「我々は無才のあなたと違って、その能力を殿下のために使っているだけだ」
「そうだ、証拠もある! これらはあなたが捨てたもの! 間違いないだろう!」
「証拠の隠滅を図った、ということだな。言い逃れはできんぞ、エミリア……!」
いきり立つ三人を、エミリアは流し見る。努めて冷静に、細く長く呼吸をしながら。そうしないと……感情が、噴き出してしまいそうで。
「確かに私が処分したもの、ですが。殿下、その本。覚えてらっしゃらないのですか?」
「なに?」
王子が怪訝な顔をし、本をちらりと見る。ボロボロで薄汚れているが、破れていたりはしない。よく見れば、それは読み込んで擦り切れて使い古されているのだ、とわかるはずのものだった。
「イリスが持っていたものだ、と記憶している。間違いない」
「中身については?」
「中身だと?」
(この方は……うわべだけで、人に興味がないんだわ。いつもご自分のこと、ばかり)
エミリアは背筋を正し、深く頷いた。
もう後戻りはできないと。
覚悟を決めて。
「それは植生についての本です。そういえば殿下、先々月の王立魔法大学でのご発表。お見事でした。花と精霊の加護の関係について、新しい切り口であると好評でしたね?」
「ふん。いまさら私をおだてたところで、婚約破棄を取り消すつもりはないぞ?」
「ええ。ですが、あの発表については、お取り消しいただきたく思います」
敏感に雲行きの怪しさを感じ取ったのか、ホールがざわつき始める。エミリアは薄く笑みを浮かべ、動揺を見せるジークを眺めた。
「どういうことだ。君に何の権利があって――――」
「権利がないのは殿下も同じ、そう申し上げているのです。あの原稿、イリス嬢に書かせましたね?」
エミリアは使用人が持ってきた紙束を、息を呑んで固まる彼に、見せつける。
「こちらは写しですが、私は彼女が書いた原本を確保しています。殿下が発表に使った原稿は、この丸写し。大学には、ご精査いただいている最中です」
「なっ――――」
ジークは言葉に詰まり、半歩下がり、目を泳がせた。
「な、なぜそんな真似をする! 私に盾突いて、何が楽しい!」
「楽しい?」
エミリアは喚く彼を見て……あの日のことを思い出していた。〝もやもや〟が限界を迎えた日。恋する相手が、大舞台にたって……誇らしくもあり、また置いて行かれたような気もした。素直に喜べない、応援しきれないその感情を抱えていたときに、イリスが〝竜鳥の涙〟を贈られたと言って――それでふと、エミリアは真実に勘づいたのだ。
彼は誰も愛していないのでは? と。
(苦しい、だけだった)
それからというものの、エミリアの愛情は〝もやもや〟にあいまいにされていった。気づいたことを忘れようとしても、彼の顔を見るたびに思い出す。恋しさを振り返ろうとすると、ずきりとした痛みが邪魔をした。
おかげでしばらく、眠れなくなった。おぞけと不安のようなものに襲われて、ジークには顔向けできなくなった。じっとしていたら心を病むと気づき、不安の原因を取り除こうとあれこれ動き回った。
エミリアはジークのことを、信じたかった。
「私、殿下が好きでした。聡明で、お優しくて、武勲までおあり。逞しく誠実な方だと、ずっと思っておりましたの」
「あ、当たり前だろう。私は……いずれ王になる男だ」
(そう、ご自分のこと。私の気持ちには、触れてくださらないのね)
エミリアは走り回った。
最近のことから順に、ジークのことを調べ回った。
信じたい思いは、どんどん強くなり。
情報は驚くほど、容易に集まり。
結局。
そのもやもやした感情に――――名前がついた、だけだった。