03-06.約定の拘束。
使者・ドニクスバレットの口元と頬が、顎が外れたかのように……歪んでいる。
(あっ)
エミリアは彼の〝癖〟を思い出し、静かに血の気が引いていくのを感じた。
「私はドニクスバレット・ドッジボール、ドニクスバレット・ドッジボールだッ! 〝ドニクス〟とは誰だ! ママに人の名前を間違えるなと教わらなかったのか、このサルめがァッ!」
喚く声が大きく、半分くらいは中身が耳に入らない。従者二人は控えて彼を冷静に見ていて、イリスは目を見開いてたじろいでいた。エミリアは自らを叱咤し、なんとか体をイリスの前に滑り込ませる。
だがドニクスバレットは止まらない。彼は「名前を省略されること」を蛇蝎の如く嫌っていた。その名に強い誇りがあり……愛称は家族にのみ許されたものだ、と考えているのだそうだ。エミリアは、彼が両親を亡くしていることを思いだし、切れ散らかす彼を安易に宥められなかった。
「ジーク様に仇なしておきながらサルめェ! 約束破りのエミリアともども絞め殺してやりたいところを、私が! この私が努力して! 我慢してやっているというのに! 人の名前を間違えやがった! 約束破りの次に許せないッ! テッド、ナバール! 抜剣ンッ!」
「「ハッ!」」
「はぁ!?」
(あちゃー……)
エミリアは頬を引きつらせた。イリスも呆れた声を上げ、身構えている。腰の鞘から細身の剣を抜いた二人の従者が、進み出てきた。姿勢や歩調、ゆるぎない切っ先から、筋が良いことを窺わせる。
こうなれば――――激突やむなし、だ。使者一行を斬ったとあれば、事態はよりまずいことになるだろうが、応戦しないわけにもいかない。イリスの能力と、聖剣のスキルを鑑みれば、この三人を制圧することは、容易。エミリアはそう判断し。
手の中に、聖剣を――――。
「第二王子の使者に無礼を働いた不届き者めッ! 沙汰を待つまでもない! 処刑だッ!」
「お待ちくだされ」
従者たちの剣を止めたのは。
エミリアの聖剣では、なかった。
彼女が剣を出す前に、玄関扉が開いた。
「使者殿におかれましては、娘が無礼を働きまして、申し訳ございません。そのお怒り、如何様にすればお沈めいただけますかな?」
するりと身を滑らせてきたのは、フラン男爵……ズライトその人だった。前に出た彼の背中を見ながら、イリスが息を呑んでいる。彼女は口を開きかけていたが……ズライトに視線を向けられ、黙らされていた。
「…………失礼。貴殿は」
「フラン男爵領を預かります、ズライト・クロックスです」
冷静さを取り戻したらしいドニクスバレットに、ズライトが丁寧に返して頭を下げている。
「お父さん! 出てきちゃダメ!」
イリスが慌ててズライトにしがみついたが、優しく振り払われた。エミリアとしても同感だが……ズライトが見せる静かな気迫に、言葉が出せない。
「下がりなさい。使者殿、お名前を伺っても?」
「ドニクスバレット・ドッジボール。ドット子爵を拝命しておりますが、私はまだ未熟者。亡き父母に顔向けできませぬゆえ……ドニクスバレットとお呼びください」
「ドニクスバレット卿。ご用件をお聞かせ願いましょう。ご案内しても?」
「いえ、結構ッ! ジーク殿下のご命令は、速やかに果たさねばならないッ!」
イリスとエミリアが戸惑う中、スムーズに話が進む。従者の一人がどこからか、筒を取り出した。中から書状を出し、ドニクスバレットに手渡す。彼は結び紐を解いて、中見をズライトに向かって掲げた。
「『フラン男爵家当主ズライト・クロックスは、至急王都に上がられたし』。ンンッ。ジーク王子殿下が直々にお会いになられる。ご案内しよう」
(いけない! 王都行きということは、人質……あるいは、見せしめ! イリスに対する!)
ズライトが頷こうとし――――。
「待ちなさい、ドニクスバレット。殿下は男爵を……処刑するつもりね?」
エミリアは声を絞り出し、割り込んだ。ドニクスバレットは書状を丁寧に巻き、紐で結わえて、従者に渡す。
「殿下の御言葉がすべてです。私は、その御意思を勝手に解釈したりはしない。だが」
彼は悠然とエミリアを見て、口元に薄く笑みを浮かべた。
「これは私の意見です――――礼儀知らずの娘が、自刃でもすれば。殿下の御心は幾分か、安らがれるでしょうな?」
ちらりと横目で、青い顔をしたイリスを見る。エミリアは歯を食いしばり、腹の底から吠えた。
「イリスが何したっていうのよ! 男爵だって、何も!」
「殿下の御意思を代弁したりはしません。私などに聞かず、直接伺いなさいませ、エミリア様。殿下の御許に、自ら赴いて、ね」
(この……ッ!)
視界の端で、青ざめたイリスが拳を握り締めている。エミリアもまた、理不尽に対して立ち向かうように、一歩前に進み出た。
だがその前に、男の背中が立ちふさがる。
「――――娘に手を出さないというのであれば、向かわせていただきましょう」
フラン男爵……ズライトの、覚悟を決めた横顔が、見えた。
「お父さん!?」
「黙っていなさい、イリス。何をやらかしたのか、詳しく聞いてはいないが」
彼の表情が、優しく歪んでいく。ほほ笑もうとして、失敗したような。そんな震えを伴って。
「木っ端な辺境貴族に連なる者が、王家のひんしゅくを買ったのであれば。これが定めだ」
「そんな……!」
イリスが声を上げ、しかし踏み出せない様子だ。エミリアもまた、男爵やイリスが堪えているのに、迂闊には手を出せないと感じていた。もしも今ここで、イリスとエミリアが暴れたと、しても。二人が旅立った後は、どうにもならないだろう。旅から帰ってみれば、家族が惨殺されている――――そんな未来がぶら下がっているのに、思い切った真似など、できようはずもなかった。
「よろしい。私の使命は、フラン男爵をお連れすることだけ。娘には手を出さない。お約束するので、復唱を願えるかな? 『イリス嬢に手を出さないなら、フラン男爵は大人しく王都まで同行する』」
「私、ズライトは、イリスの身命が無事であるなら――――」
「待って、ダメ!」
エミリアが鋭く叫ぶ。ドニクスバレットが胸に手を置き、その甲に妙な輝きを見せていた。
だが。
「――――ドニクスバレット卿に同行し、王都に向かいます」
間に合わなかった。
「約束ですよ……ふふ」
ドニクスバレットの手の甲が輝き、紋様が浮かぶ。そこから鎖のような光が伸び、ズライトの体をがんじがらめにした。
「こ、これは!? スキル!」
「そう、我がスキル〝約定の拘束〟。約束を果たすまで、あなたに自由はない! 信用しないわけではないが……そう。その娘どもが、約束の履行を妨害しないとも限らない」
じゃらり、と鎖が鳴る。ドニクスバレットは、不敵な笑みを見せていた。
「約束が果たされなければ、我がチェーンがフラン男爵を絞め殺す。大人しくしておくがいい」




