03-05.王子の使者。
翌朝。
〝もやもや〟が消えない――――およそ二カ月前から抱えているその感情を、エミリアは持て余していた。それはジークの元を離れて以降、大きくなるばかりだ。イリスの役に立てれば、多少は収まる。だがそもそも、役に立てることが少ない。
そんな中でエミリアは、「イリスができないこともある」と聞き……少しだけ、自分の未来を見つめられるようになっていた。だが彼女の役に立ちたいという、その想いに……〝もやもや〟に目を向ければ向けるほど、感情は大きくなって。イリスと美味しいご飯を食べ、屋敷精霊のアロママッサージを心行くまで堪能し、翌朝までぐっすり眠って、起きて屋敷周りを散策しても――――心は晴れなかった。
朝の日差しは弱く、少しの肌寒さを感じさせた。空気が少しだけ、透明で……その中に遠く、何かの音が混じる。
否。
「声……? 男爵領の人は、昼まで戻らないって言ってたのに」
エミリアは耳を澄ます。確かに、人の声がした。だが今、この屋敷には三人しかいない。ズライトは確か工房だったはずで、いるとすれば他はイリスだけ。
そこまで考えて。
(まさか、追手――――!?)
ジークの顔が思い浮かび、即座に首を振る。エミリアは急ぎ足で、声のする方へと向かった。近づくにつれ、音がはっきりしてくる。どうも、男性二~三人が喋っているようだ。そしてごく小さく、馬の蹄らしき音もする。
空の馬小屋を回り込んだところで、屋敷の玄関口が目に入った。
そこには。
(あれは、確か殿下の……!)
見覚えのある男の顔があった。それに、帯剣した従者らしき男たちが二人。
そして彼らの正面に。
イリス。
「ドット子爵、ドニクスバレット・ドッヂボールです。お嬢さん、フラン男爵をお呼びいただきたい」
馬を降りた男たちが、イリスに話しかけている。ドニクスバレットと名乗った彼とは、エミリアは知己であった。
(やはりドニクスバレット……両親が亡くなった後、取り潰されそうになった子爵家をジーク殿下に救われ、子爵になった男。学園でも殿下の傍にいる一人だった)
年の頃は同じで、彼はジーク王子の取り巻きの一人である。ゆえあって子爵位を継承しており、ジークを崇拝していた。エミリアに対しても「ジークの伴侶に相応しい」として、強い敬意を払っていた男だ。ただいくつか強烈な〝癖〟があり、周囲からは煙たがられている。ジークには気に入られていたが、エミリアは扱いづらいと感じていた。
(そんな彼が、フラン男爵……ズライト卿を名指しで呼び出し? 目的は……)
ジークの子飼いが、彼が殺そうとしていたイリスの父を求めている。エミリアは事態を把握し、慎重に、しかし素早くイリスに近づいた。
「あ、エミリア様」
「何をしに来たの、ドニクスバレット」
イリスに声をかけられ、エミリアは子爵を睨みながら割り込む。従者たちは驚いて身構えたが、当のドニクスバレットは優雅に髪をかき上げ、彼らを制した。
「やはりあなたもいらっしゃいましたか、エミリア様。ジーク殿下は、悲しんでおられましたぞ?」
深く礼をしてから、ドニクスバレットが告げる。婚約破棄騒ぎは知っているそぶりだが、エミリアをなじるでもなく、本気で憂慮している顔だった。エミリアは一瞬、ジークのことに思考が傾きそうになるが……目の前の事態に、意識を引き戻す。
「あなたにとやかく言われる筋合いは、ないわ。フラン男爵に何の用なの」
「それこそ、無関係のあなたにとやかく言われる筋合いは、ないというものです……そう警戒なさらず。あなたを連れ帰れという命は、受けておりませんので」
(ドニクスバレットは、殿下の忠実な部下。言われてないことは絶対にやらない。言われたことは何が何でも果たす。その点は信用できるけど……不安しかないわ)
睨みつけるエミリアに対し、ドニクスバレットが視線を真っ直ぐに向けた。咎めるようでもあるが、どこか慈悲や同情を感じる視線だった。
「約束破り……婚約という重大な約束を破った者は、自ら罰を受け、罪をあがなわねばなりません。あなたの足で、ジーク様の下に戻られると良いでしょう」
彼の口調は非常に優しかった。あくまで、ジークとエミリアが復縁することを、心の底から望んでいるようだ。
だがそれが逆に、エミリアの神経を逆なでた。
「――――婚約を破棄したのは、彼の方よ」
「あなたは婚約を維持するために、何かしたのというのかね?」
強い言葉で返すと、より強い意思を込めた視線が戻ってきた。瞬間。
ドニクスバレットの口元が、頬が。
顎が外れたかのように、歪む。
「約束とは! 双方同意の元、達成のために尽くすものだ! 努力するものだ! ジーク殿下が、〝無才〟あなたを迎えるために、どれほど腐心しておられたことか! 周囲の反対をどれだけ押さえ込んできたことか! 婚約破棄されたからなんだというのだ!? あなたはそれを覆そうともしなかったというのか!」
大きく開いた彼の口から、矢継ぎ早に言葉を浴びせられた。
ずきり、と胸が痛み。
(私だって、あの方と結ばれたかったわよ……! でも、無理だった!)
エミリアは胸元のブローチを、握り締めた。
愛と裏切りの始まりを示す、〝竜鳥の涙〟を。
「私の努力も知らないあなたが、偉そうに言うわね! それをあの方が踏みにじったのよ! 私がいながら、イリスに手を出そうとして……!」
「なぁにぃ?」
ドニクスバレットがぎろり、とイリスを睨む。彼女の胸元の、ブローチをじっと。それからぐりん、と首を回して、エミリアに向き直った。
目が、血走っている。
「あなたは、そんな覚悟もなかったというのか! 王たる方ならば、側室や妾などいて当たり前! その程度で揺らぐとは……あなたの態度は、ジーク様への侮辱だッ!」
「なっ……!?」
エミリアは驚愕し、声を上げた切り……反論が、続かなかった。
確かに、先代の国王には側室がいた。エミリアの実家はそうではないらしいが、妾を持つ大貴族もよくいると聞く。彼女の生きる貴族社会にとって、一人の男を複数の女が愛することなど、当たり前の文化であった。わかっていた、はずなのだ。
(でも、私は……私はどうしても!)
だが、許せなかった。
エミリアは視界の端で、イリスのブローチを見る。ジークが彼女に贈った、愛の証。あるいは、本当は愛などないのだと示してしまった、証拠品。
エミリアは、転生者である。地球の、日本で生まれ育った記憶がある。そしてこの世界に似た〝乙女ゲーム〟をこよなく愛していた。ゲームのジーク王子は素晴らしい面と、その奥の葛藤がほどよく表現されており……とても魅力的だった。
ゆえに彼女は、ジークの独占をどこかで当然だと考えていた。自分の価値観で、そしてここはゲームだから、と。結ばれた王子様が、側室や妾をとるなんてありえない、と。
前世の価値観と、ゲーム感覚が抜けていなくて。
彼女は大事なものを、自ら手離したのだ。
彼の愛を、信じられなくなって。
自ら冤罪を仕掛けて。
彼を貶めて。
(私は――――間違っていた、の?)
ジークが不正をしていた――――だがそれは、この国では罪に問われない。彼は浮気をしていた…………だが王族なら当然だと、きっと誰もが言う。そんなことはわかっているつもりで、しかしエミリアはそれが許せなくて……許せないという気持ちが、誰もに認められるのだと。
どこかで、甘く考えていた。
自分の間違った考えで、取り返しのつかないことをした。その事実が。胸に深く、突き刺さる。
「…………言いたいことがあるなら、ジーク殿下本人が言うべきね。あなたの言葉を聞く義理はない」
声が引きつれそうになりながら、視線を泳がせながら、エミリアは言い訳を絞り出した。
「その通り! ジーク殿下のお言葉はすべてに優先する! 私は殿下からいただいた、大事な使命を果たさねばならないのだ! レディ……イリス・クロッカス。お取次ぎはまだかね?」
矛先が自分から外れ、エミリアはほっと息を吐いた。あるいは……油断した。
「埒が飽きませんね。ドニクス卿、しばしお待ちを」
イリスが一言断って、玄関扉に手を掛けようとする。
その背中に。
「…………待て。今、何と言った?」
ドニクスバレットの、冷たい声が差し込まれた。




