03-01.私が妬ましい。
眩しい――――ほんのり明かりの灯る車内で、エミリアはぼんやりとそう呟く。言葉は口の中で転がされ、そのまま消えた。もちろん、室内灯のことではない。
イリスだ。
(この狭い車内で、学園の食堂より美味しい食事にありつけた上、体もすっかり綺麗にされてしまった……お風呂に入ったみたい。最初は粗相も多かったけど、ひと月でスーパーメイドになったわね、イリス)
「努力すれば無限に成長できる」というスキル〝才能〟の祝福の持ち主、イリス。彼女のおかけで、実家へ向けた車旅は順調であった。
あとは休むだけとなり、エミリアは毛布にくるまった。横になりながら、隣のイリスを眺める。
(世界の主人公が……こんな光のような子が。王子様なんか、好きじゃなくて。私のために、ご飯作ったりしてくれてる……)
今のイリスは、縫い物中であった。彼女は呼吸や睡眠といったものでも鍛え込んでいるらしく、ほとんど眠る必要がないという。明らかに、夜長の構えであった。エミリアには、とても真似できない。大変な一日だったこともあり、そろそろまぶたがくっつきそうだ。
だが、胸の奥に強い熱があって。
あまり寝たく、なかった。
〝もやもや〟する。けれど、それがうまく整理できない。
(この〝もやもや〟……前はイリスを見たら、スッとおさまったのに。殿下への嫉妬じゃ、ないの? その恵まれた立場に甘んじて、好き放題していた、あの人への……)
他人の成果を掠め取っていた、ジーク王子。その有様が許せなくて、でも愛していて。だからエミリアは、彼の愛を試した。だがジークは、彼女を愛してなどいなかった。そうだと思ったのだ。
しかし。
(彼は私を、取り戻そうと追いかけてきた……。もし、万が一。私が何かを誤解してて、舞踏会での私の判断が、間違っていたのなら)
ジークが本当は、エミリアを愛しているのだとしたら。
エミリアは、取り返しのつかない選択を、したことになる。
否。
取り返しは、つくのだ。
イリスを差し出せば、きっとジークはエミリアを受け入れてくれる――――。
(はっ!? 何を考えているの私は――――!? イリスを裏切るなんて、できっこない!)
思いつきを愚かな考えだと断じ、エミリアは体を丸め、毛布を頭からかぶる。目を閉じ、早く寝てしまいたいのに…………頭が熱くなり、寝つけそうにもなかった。
布越しの肩に。
手が、置かれる。
「お休みください、エミリア様。いつものようにマッサージ、しましょうか?」
イリスの優しい声がする。肩から背中を、ゆっくり手が撫でている。そうされるとじーんと頭の奥が重くなるのに……胸の奥の熱が、〝もやもや〟が強くなって。
エミリアは毛布をはいで、起き上がった。
薄明りの中で、穏やかに自分を見て、待っていてくれるイリスに。
顔向け、できない。
エミリアは揺れる視線の行き場を探して、間がもたなくて。
「どうしてイリスは、私にそんなに優しくしてくれるの?」
「エミリア様…………」
もやを押し出そうと、言葉にした。
苦しみは――――増した。
自覚して、しまったから。
イリスは、優しくしてくれる。
では、エミリアは。
(甘んじているのは、私……)
学園に入ってすぐ、仲良くなったイリス。ゲームの破滅を回避する目的もあったが、それよりも強く憧れて……なのに妙に、気が合った。遠い世界の人にしか見えないのに、気づくといつもそばにいて、離れがたくて。
ジーク王子がつけ狙っているからと、寮で相部屋にして。学費を自分で稼いでいるというので、身の回りの世話を仕事としてお願いして。一緒に過ごして、勉強して、意外に成績が拮抗して。共に泣いて笑って、毎日一緒にいて。
エミリアの危機に駆けつけて、もう国にいられないという自分を連れ出してくれて。危ないところを守ってくれて、今も寄り添ってくれる……いつの間にか、エミリアが頼りっぱなしの。
〝万才の乙女〟、イリス。
(なのに、私は……この子に、私は!)
エミリアは、そんなイリスに……何も、してあげられて、いない。そればかりか彼女に対し、ジークを押し付けようとさえした。しかも、彼女を差し出せば、ジークのところに戻れるかもしれないなどと……そんなことを、考えてしまった。
(私のために、イリスを使おうとしている! 使っている! こんなの、ジーク様と一緒だ……!)
いびつで異常な感情が、渦巻く。エミリアの胸の奥の〝もやもや〟が、血を伝って全身に流れ出る。自らの体をかき抱き、エミリアは顔を苦悶に歪める。
「私は――――私が妬ましい!」
「…………え? エミリア、様?」
疲れているのだろう、そう案じてくれていた様子のイリスの顔に、戸惑いが差した。エミリアは許しを請うように、震える。
「私はね、あなたになら何をされてもいいって……許せるって、そう思っていた」
震えに押し出され、瞳に浮かんだ雫が零れる。
「才能だけじゃない、本当に輝くような人。あなたになら、酷いことをされても構わない。ジーク殿下をとられたって、いい。そんなふうに、思って。でもそれは」
おずおずと差し出された手を、エミリアは縋るように握る。
「傲慢な驕りよ! すごいって思いながら、あなたを下に見ている! 友達の立場に甘んじて、何もかもやらせて……! 優しくしてくれるイリスに、私は優しくできてない!」
祈るように、イリスの手を額にこすりつけて。〝もやもや〟が突き動かすままに、エミリアは吐き出した。
「優しく――――――――」
静かになった車内に、イリスの透明な声が響く。
「わたし、なんかに。でもエミリア様は、公爵家の、ご令嬢で。わたしなんか、貧乏男爵の、娘で。今までだって、十分すぎるほど、いただいたのに。これ以上、なんて」
「足りてないわよ、そんなの……! こんなものじゃ、努力してるって言わない! 私はあなたに何かしようと、努力していない! それともあなたは、言うの!? 言ってくれるの!?」
「言い…………ません」
イリスが黙りこくった。〝努力〟という言葉が、黙らせた。エミリアは顔を上げ、間近なイリスをじっと見つめる。彼女は俯いて、顔を赤くしていた。目の端に涙が見え、怒っているような、顔をしている。
(嫌われたく、ない)
努力しない人間が嫌い。そう公言する友達に。
「なに、してあげたらいい? なんでもする。ほんとは、自分で考えた方がいいんだけど……あなたが何してほしいのか、わからなくて」
エミリアは懸命に歩み寄る……あるいは媚びるように、すり寄る。戻らぬ返答に焦れ、距離を詰めて。
「あっ……そうだ。嫌だったら、言って」
囁くように、続けた。
エミリアの手が、遠慮がちにイリスの肩に置かれる。彼女はびくりと震えたが、顔を上げず、声も出さない。潜めるように息をするイリスを窺いながら、エミリアは彼女をゆっくりと撫で始めた。
肩を。二の腕を。脇を避けて、背中。
「どう?」
恐る恐る、聞いてみれば。
「嫌じゃ、ないです。けど」
やっと反応が、あった。口ごもるようで、何か言いたげで、それでも続きがなくて。エミリアはイリスの細かい気持ちまでは、判断がつかなかった。ひとまず継続しようと彼女の背に手を回し、少し首を傾げながら撫でまわす。
「体、固い。マッサージ、した方がいい?」
「緊張してるんです……こってるんじゃなくて」
「なにそれ。もっとリラックスして」
嘘ばっかり……そう思いながら、時々指先に力を入れる。首の付け根や、肩甲骨の周りが固い。両手を使い、正面から彼女を抱きすくめるようにして、エミリアは撫で続けた。
少しでも――――優しさがこもるように。
(私がしてもらって、心地よかったように……この子が喜ぶことを。もっと、もっと努力して――――イリスに喜んで、ほしい)
時折、イリスの小さな口から、我慢しているような吐息が漏れた。息に合わせて、手を背中に押し込むと、イリスが震えて呻きを零す。痛いようではなさそうなので続けると、彼女の背中に入っていた力が、徐々に緩んできた。
それと同時に。
(これで合ってるんだ……〝もやもや〟が、消えていく)
血を巡り、エミリアを突き動かしていた感情が、落ち着きを見せていた。
(イリスに撫でてもらっても、消えなかったのに。もっと、もっとしてあげたい)
エミリアは、撫で続けた。
普段ほとんど眠らないイリスが。
夜明けまで目が覚めないくらい……ぐっすりと、寝付くまで。
彼女が甘えるように涙しながら、自分を離さず、眠るまで。




