02-08.長い一日が終わる。
赤い光が西から差し、振動も音もほとんどなく、軽快に進む車の中で。
(あんな恐ろしい人を、好きになっていたなんて……)
エミリアは大いに、へこんでいた。靴を脱ぎ、座席の上で膝を抱いて座っている。
ジーク王子は、撒いてずいぶん時間が経った。馬が追いかけてくる様子もない。直後のショック状態からは抜け出したものの、エミリアは少々物音に敏感になっており、情けなくもまだ……怯えていた。
「…………ごめんなさい、イリス」
「えっ。なんでエミリア様が謝るんです……?」
たまらず呟くと、イリスが声を抑えて返してきた。刺激しないようにという彼女の気遣いが感じ取れ、エミリアはぐすっと鼻を晴らす。
「……あんな人を、私。あなたに押し付けようとしたわ。もし舞踏会に、あなたがもう少し遅れて来ていたら……」
強い悔恨が、胸の中を渦巻いていた。イリスがジークのものになってしまった可能性を考え、エミリアは涙ぐむ。彼女が口にしているのは、ジークとの婚約破棄劇における反省だ。エミリアは舞踏会にイリスが来れないようにし、ジークに自身が糾弾されるように仕向けた。イリスを現場にいさせないことで、婚約破棄が終わった後……ゲームのヒロインたるイリスと、ジークが結ばれる可能性を残しておくためだ。
だがそれが、どれほど愚かなことだったのか……ジークの本性を見て、エミリアは怯え、震えた。
「――――大丈夫ですよ、エミリア様」
力強く言うイリスに、エミリアは顔を少しだけ膝から上げ、視線を送った。
「前も言いましたけど。わたし、努力しない人は嫌いです。殿下が言い寄ってきたら全力で逃げますし……エミリア様がいなくなってたら、学園辞めました」
「えっ」
朗らかに笑う彼女に向かって、エミリアは思わず顔を上げる。
「でもその、あなた。ブローチ、受け取ってたし。ちょっとは、好きなんじゃ、ないの?」
「……………………ブローチ?」
イリスが押し黙った後、呟きを返してきた。エミリアは彼女の胸元を見つめ、頷く。そこに輝いているのは、エミリアと「お揃い」のアクセサリー。
「〝竜鳥の涙〟。男性から女性に贈るのは、伝説になぞらえた愛の告白なのよ。知らない?」
「――――知りません。知ってたら、突っ返してました」
「ふぅん……」
イリスの答えに小首を傾げ、エミリアは膝に顎を落とした。
(知らないんだ。結構有名なのに。イリスのお父さま、元冒険者じゃなかったっけ? そういう人たちの間で伝わる話だって、本で見たのだけど……あてにならないものね)
もう二月近く前になるが、イリスはジーク王子からあのブローチを受け取っていた。エミリアはそれを偶然目にし、しかも直後に『おそろいです』と喜ぶ彼女に突撃されたわけで。
もしも。もしもイリスが伝説を知っていたのなら。エミリアの婚約者からもらった愛の証を、見せつけたことになる。どんな神経なのかさっぱりわからず、エミリアは弱く首を振った。
(まぁ確かに、あの時のイリス、全然そんな感じじゃなかった。あんな喜び方、するんなら。そりゃ知らないか)
何かイリスにじっと見られているような気もしたが、エミリアは無視して膝に顔を埋めた。
(そういえば、ジーク殿下。なぜイリスを殺そうとしていたのかしら。何か私の方に、執着してる感じだった……逆じゃ、ないの? 彼は私のことなど、愛していなかったというのに)
「…………車、止めましょうか。エミリア様、お疲れみたいですし」
ぽつりとイリスが零し、車の速度が緩むのを感じる。
「え? でも」
疑問を口にし、エミリアは少しの焦燥を自覚する。今はもう追ってきていないとは、いえ。ジークが来ないという確信は、ない。
「どのみち、朝まで走っても公爵領にはつかないですから。うちはその手前ですけど……明るくなってから走り始めた方がいいです。負担になります」
「負担? 車の?」
「いえ、わたしたちの。精霊車は、乗ってる人間の魔力を吸って動いてるんです」
「へぇ…………え。乗って大丈夫なの? それ」
イリスの淡々とした回答に、エミリアは疑問を上乗せする。話しているうちに少しは落ち着いたのか、顔からは緊張の色が抜けていた。
「初期の精霊車はダメだった、らしいです。今は効率いいですし、吸われてる感じはしませんよね? さすがに一晩中走らせてると、疲れてくるはずですけれど」
「そう……」
精霊車はゆっくりと、木立の影に止まった。赤い夕陽が遮られ、エミリアは静かにため息を吐く。思ったよりも負担があったのか、その息は長く、どこか憂鬱であった。だがイリスといくらか会話したせいか、鬱屈とした心は晴れたようだ。
少なくとも〝もやもや〟は、感じなかった。
「今日はここで休みましょう。車内にいれば、ひとまずは大丈夫です」
「またジーク様が……って、そうか。聖剣はここにあるんだったわね」
エミリアは後部座席を恐る恐る見る。むき出しの刃が、座席の下に転がっていた。あの剣がここにある限り、寝ている間にいきなり剣でぶすり、とやられることはないはずである。
「ええ。だから大丈夫ですよ。精霊車を傷付けられるものなんて、そうそうありませんから」
小柄なイリスが、めいっぱい体を伸ばしている。彼女は背もたれを後ろに倒し、そこに倒れ込んだ。リラックスした様子のイリスを見て、エミリアも頷き、シートベルトを解く。少し座席を倒して寄り掛かると、深く深く息が出た。頭の芯がずーんと重たくなり、瞼が降りる。
(今日、いろいろあったから……ジーク様と、お別れして。イリスと旅立って。国王陛下と王妃殿下にお話を聞いて。ジーク殿下に……追いかけられて)
恐ろしい形相のジークを思い出し、エミリアは身を震わせる。奥歯を噛んで、目を開いた。
(これから私、イリスと二人で帝国に行くのね。家族ともお別れして……)
複雑な胸の内と共に、細く長く息を吐く。エミリアは王都で最後まで妃教育を受け、そのまま学園に進学した。ゆえ、辺境近くの公爵領には、長く帰っていない。王都に来たときの公爵や公爵夫人は忙しく、あまり会えてはいなかった。
(お父さまたちに会うのは、久しぶりだわ。先触れは出したけど、たぶん車の方が早く着く。突然だし、きっと驚かせてしまうわね……)
「まずはご飯にしましょう。寝るときはシート倒して、毛布にくるまります。水もたくさんあるので、使うなら言ってください」
イリスが身を起こして、声をかけてきた。見れば彼女は、毛布を抱えている。一つを、エミリアに投げて寄越してきた。
「そうなの? どこに?」
受け取ったエミリアは毛布を広げ、小首を傾げる。そもこの毛布とて、どこにあったのかわからない。
「後部座席の下ですけれど、見た目よりたくさん入ってますよ。アイテールの才は〝積載〟なので、備えはたっぷりです」
「えっ。精霊車にも、スキルがあるんだ……」
驚きの一言だった。人間の自分は〝無才〟で何一つスキルがないのに、モノや車にすら精霊が宿って力を与えるというのだから。
「そりゃあ、精霊が宿ってれば。なんだってスキル持ってますよ」
(その理屈で言うと。私は精霊に、見放されてるってことかしらね……あるいは、後から私に宿せたりとか、しないのかしら?)
そんなことを呆然と考えながら、エミリアはイリスの出してくる食料や飲料を受け取った。
顔を上げれば、沈む夕日が、遠く。
大きな波乱に満ちた、一日の終わりが。
少しだけ穏やかに、訪れようとしていた。
これにて、二章完結です。このまま三章、男爵領編に進みます。




