33 Of Blood and Destiny
最初に予期せぬ訪問者を迎えたのは、少年の母であった。
黒衣の女はゆるやかに手袋を外し、手入れの行き届いたしなやかな指先を露わにすると、優雅に身をかがめて礼をし、冷ややかながら澄んだ声で告げた。
「突然のご無礼をお許しください。しかし、私どもはご当主をお連れしなければなりません」
彼女は彼の正妻であり、ヴィクトリアの母であった。
その背後には、まだ十一歳のヴィクトリアが控えている。
唐突な要求に、少年の母はどう応じるべきか分からず、ただ戸惑うばかりだった。
一方、息子と遊んでいた父も、玄関の異変を察して慌ただしく姿を現す。
「父上。」
ヴィクトリアは小さく呼びかけた。その声には甘えも距離もなく、ただ当然の帰属を示す響きだけがあった。
母娘の姿を目にした少年の父の表情は、瞬時に険しさを帯び、長い沈黙ののち、低く抑えた声を絞り出す。
「……ここへ何をしに来た」
女は遠回しを避け、端的に告げる。
「当主様の命は残りわずか。主人には家業を継いでいただかねばなりません」
「俺はもう、あの家の人間ではない」
彼は無表情のまま答えた。
「戻らぬという選択もありましょう。しかし、家族が主人を放っておくことはありません」
女の声音は穏やかでありながら、揺るぎない威圧を帯びていた。
「もしなお拒まれるのであれば――主人がここで築いたものすべてを、家族はいつでも奪い去ることができます」
その言葉に、彼は顔を上げ、鋭い眼差しを返した。
少年の母は、どう介入すべきか分からず、不安げに成り行きを見守るしかなかった。
一方のヴィクトリアは終始、父をまっすぐに見据え、その瞳に一切の揺らぎを見せなかった。
やがて、彼女の視線は母の背に隠れた小さな影へと移る。
そこには、好奇心に満ちた眼差しでこちらを見つめる少年がいた。
彼女よりはるかに幼いその少年は、計算も恐怖も知らず、ただ純粋な疑問だけを瞳に宿していた。
「君は誰?」
少年はまっすぐに問いかける。
少女の長い睫毛がわずかに揺れた。
――それが、彼女にとって弟との初めての邂逅だった。
本来なら、ただの他人のようにしか感じないはずだった。
だが、激しい雨に包まれた夜、玄関口に立つ少年を目にした瞬間、彼女の胸を得体の知れぬ感覚が駆け抜ける。
自分と彼の間には、目に見えぬ絆が確かに存在するのではないか――。
雨粒が石段を叩き、静かな調べを奏でていた。
そのとき、誰も気づかぬまま、運命の歯車は静かに回り始めていたのだ。
その夜を境に、少年の父はついに容赦なく連れ去られ、
そして、あの激しい雨がヴィクトリアと真一の運命を交わらせる始まりとなった。
出会いの夜を経て、ヴィクトリアは再び冷たくも華やかな一族のもとへと戻っていく。
だが、その夜を境に、彼女の人生は静かに変わり始めていた。
父は戻り、彼女は再び逃れられぬ運命の軌道へと引き戻された。
年齢には不相応な重責を背負いながらも――。
けれど、あの短い邂逅は、彼女の心に決して消えることのない痕を刻んでいた。
彼女には、弟がいたのだ。
まるでこの世界に属さぬかのように、無邪気で自由な弟。
最初はただの好奇心から、ときおり彼の様子を人づてに尋ねる程度だった。やがて、母親が懸命に働きながら彼を育ててきたことを知る。裕福ではなかったが、その幼少期は温もりと笑いに満ちていた。
機械いじりが大好きで、おもちゃを分解しては組み立て直し、捨てられた部品から簡単な装置を作り出すこともあった。母親の家電が壊れると真っ先に駆け寄り、修理に挑む。たとえ失敗しても決してめげず、むしろ熱心さを増して研究に打ち込んでいた。
彼はのびのびと育っていた。
家族のしがらみも、背負うべき重荷もない。
そのことが、彼女の胸に複雑な感情を呼び起こした。
だが同時に、彼女はさらに決意を固め、自らの弱さを決して許さなくなった。
一族の後継者として、血の繋がりに甘える幻想に浸る暇などない。
家族は彼女に大きな期待を寄せていた。そして彼女は、それを裏切らなかった。
高校を卒業すると、世界最高峰と謳われる軍事アカデミーへの進学を推薦される。そこで卓越した戦略眼と驚異的な戦術遂行力を発揮し、講義では常に優秀な成績を収め、実戦演習でも数々の成果を挙げた。個人戦闘から部隊指揮に至るまで最も苛烈な訓練を受け、すべてを人並み以上にこなしてみせた。
冷静な判断と果断な行動力によって驚くほど短期間で優秀な成績を修めて卒業し、直ちに軍に進んで精鋭部隊に選抜され、人々から畏敬される特殊将校となった。
その間も、彼女は遠く離れた少年のことを見守り続けていた。
彼は相変わらず明るく、品行方正で学業も優秀だった。さらにスポーツの才能にも恵まれ、仲間から愛されていた。走ることや球技を得意とし、困っている人を助けるのが好きで、余暇には教師や友人の手伝いにも励んでいた。
教師たちは彼を口々に称賛し、友人たちもまた彼のそばにいることを望んだ。彼の生活は常に活力と陽光に満ちていた。
彼女は決して彼の邪魔をせず、ただ静かに見守り続けていた。
この均衡は永遠に続く──そう信じていた。
しかし、その日、世界は崩壊した。