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32 Of Oblivion and Happiness

 本来なら莫大な家業を継ぐはずだった父が、家族の期待に応えられなかったのである。

 ヴィクトリアが五歳のある夜、家族会議の広間から父と祖父の激しい口論が響いてきたのを、彼女はかすかに覚えている。祖父の声はいつものように威厳と冷徹さに満ち、家族を叱責するときと変わらぬ響きを帯びていた。

 それに対し、父の声は怒りと、ほとんど絶望に近い必死の葛藤に震えていた。

「俺はあなたの道具じゃない! もうこんな操られた人生はごめんだ!」

 男の怒声が豪奢な邸宅にこだまし、祖父の返答は冷酷きわまりなかった。

「この家に生まれた以上、責任を果たすのは当然だ。お前の感情も意志も、取るに足らん。」

 やがて重い扉が乱暴に閉じられる音とともに、その口論は終わりを告げた。

 翌日、父は一族を去った。財産を持ち出すこともなく、痕跡すら残さずに。それ以来、彼の名は家族にとって意図的に抹消される禁忌となり、ヴィクトリアもまたその日悟ったのである――この家では、個人の意志よりも一族の栄光こそが遥かに重要なのだと。

 それ以降、すべての期待は彼女の肩にのしかかった。幼い彼女にはさらに厳格な訓練が課され、課程は一層重くなり、師たちの要求も苛烈さを増していった。家族会議では彼女の名が繰り返し取り上げられ、長老たちは冷ややかに値踏みするような眼差しを注ぎ、将来を担うに足る存在かどうかを測り続けた。

 だが、その視線が彼女に温もりをもたらすことはなく、かえって孤独を深めていった。母は父のことを一切語らず、まるで過去そのものが存在しなかったかのように振る舞った。そして祖父は絶対的な権威をもって父の名を完全に消し去り、それを永遠の禁忌とした。

 この巨大な一族の中で、彼女はもはや無邪気に夢を見る子供ではなく、父の代わり――一族の重責を担う後継者として仕立てられた存在となった。彼女に残された唯一の道は、ひたすら強くなり、すべてを背負えることを証明すること。それは、自分自身に属するものをすべて犠牲にすることを意味していた。

 ――極東の国の首都。

 夜の街路はネオンに彩られ、鮮やかな光の洪水が人々の往来を照らし出していた。だが、この街をさまよっていた男にとって、その喧騒は心の空虚さをいっそう際立たせるばかりだった。

 彼は一文無しだった。家族と袂を分かったその瞬間から、富も地位もすべてを失い、今では雑用仕事でどうにか生計を立てている。本来ならここに留まるつもりなどなかったはずが、ある日、運命は小さな悪戯を彼に仕掛けた。

 その日、彼は小さな食堂で料理を運び、皿を洗っていた。忙しく立ち働く最中、ふいに優しい声が耳に届いた。

「すみません、味噌汁をもう一杯いただけますか?」

 顔を上げると、そこには温かな笑顔があった。

 彼女はその食堂の常連客で、いつも同じ定食を頼み、食事の傍らで静かに古い本をめくるのを好んでいた。二人の会話は最初こそ形ばかりの挨拶にすぎなかったが、やがて心のこもった言葉へと変わっていった。

 彼は遠い国から来たただの労働者だと語り、彼女は教師として平凡ながらも充実した日々を送っていると告げた。

「あなたの目は、いつもどこか悲しそう。」

 ある日、彼女がそっと言った。

 彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて微笑んで答える。

「そうかもしれないね。」

 彼は過去を語らなかった。家族のことも、自分がなぜ落ちぶれたのかも。だが彼女はそんなことを気にも留めず、ただ温かな眼差しで彼を見つめ続けていた。その視線はまるで「過去は関係ない、大事なのは今のあなた」と語りかけているかのようだった。

 そして二人は恋に落ちた。

 一年後、元気いっぱいの男の子が生まれる。

 彼はついに、長く夢見ていた生活を手に入れた。平凡でありながら温かな家庭。昼間は懸命に働き、夜帰宅すれば妻が食卓に温かい料理を並べてくれ、子どもが「パパ!」と叫んで嬉しそうに腕に飛び込んでくる。世界は小さくなったが、その分確かな安らぎに満ちていた。

 しかし、運命は彼に永遠の平穏を許さなかった。

 雨の降る黄昏、若い夫婦の家の前に一台の高級車が音もなく停まる。ドアが開き、黒いドレスに身を包み、精緻な意匠の長柄の黒い傘を差した優雅な女性が姿を現した。彼女の足取りは揺るぎなく、その顔には冷ややかな威厳が漂っていた。

 そのすぐ後ろには、一人の華奢な少女が静かに続く。端正な瓜実顔に、まだあどけなさを残した落ち着いた表情。肩まで真っ直ぐに流れる濃い茶色の髪。そして、暗い雨夜の中ひときわ際立つ、氷のように澄んだ青い瞳を持っていた。

 彼女たちの姿は、この街並みにあまりにも不釣り合いで、まるで異世界から現れたかのようだった。

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