小説は結局読むに限る
皆さん。
ここ最近、本を読んでおりますでしょうか?
私はまともな文学作品は数年、あまり読んでいなくて、最近また熱がぶり返してきたのもあり、読み始めている次第です。
というか、その読んでいる作品に影響されて、妙に書く文書く文で句読点が多くなってしまって、多分なろうには合わないような読み辛い文しか書けなくなってしまいました。
こうやって行を空けてスケスケにして、なんとか読めるレベルです。
それで、今回のエッセイではなにを語るのかというと、タイトルにもある通り、『小説はたくさん読んだ方がいいよね』、というお話です。
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最近、私の短編エッセイにも書かせていただきましたが、ある作者の小説を2本買わせていただきました。
誰でも知っているであろう有名な作者なのですが、その方の作品をいくつか読んで、不甲斐ない限りですが、いままで知らなかった事をたくさん、知識として得られ、その結果、私はある1つの考えにたどり着きます。
『やはり、小説は読むに限る。執筆もいいけれど、常に、新しいことを求めるならば、それは自分の手の中ではなく、他人の手の中にある』、と。
先に断っておきますが、私はなにも、小説が本当の意味で読むに“限る”と、そう言いたいわけではありません。
執筆はたいへん素晴らしいものですし、私自身、こうやって思うところ考えるところ、想像するところを文字にするのは、とてもとても大好きな事です。
しかし。
そのうえで私は、『なにか新しいものを得たいのならば、小説を読むに限るよね』、と言いたい。
たとえそれが興味のあるものでも、ないものでも、等しく、小説を読んで、巡って。
さすればそれは、知識として頭の中に入ってきます。
私は知らないものを知りました。
普通であれば知りえないことを、小説を、本を通して知ることができました。
まるで、いままで見えていた世界(景色)が、急激に広がっていくかのように。
私はこのエッセイ集の3つめ(『あたかも真剣そうに文学について語るの巻』)にて、
『もし【ライトノベル】と【昔の作品】に違いを見出すなら――【ファンタジー要素があるかないか】でいいかもしれません。私が思うに、もっと本質的な、時代の移り変わりによって生じる『ニーズの違い』があるんですけど……ざっくり言うと【ファンタジー要素】の有無で見分けられると思います。』
と書きました。
しかし今にして思えば、これは間違いであったと思います。
(神話などにまで話を拡げ、それがいわゆる『ファンタジー』であるかどうか、については割愛させていただきます)
というのも、私が見て読んだ限り、ここでいう【昔】の時点において、すでにファンタジーだと考えられる本は存在していたのです。
なんというか、ますます私の知識量の乏しさに唖然愕然としてしまいますが、真に注目すべきはそこではありません。
真に注目すべきは、『知らないことを本を読むことによって、知っていることに変えた』、という点です。
そもそもの話、知識に限界や絶対というものはないので、人はある一定の知識を得たとき、時に満足をしてそれ以上の学びを得ようとしませんが、しかし、それでもこうやって、まだまだ世界は知らないことで溢れているのです。
それを、ある意味で楽しみながら、娯楽として(本を読む、読書するという行為にはもちろん、ただ単に娯楽としてする、という意味もありますからね)、しながら、知識を得られる――本の“良さ”はここにあるのではないでしょうか?
普段であれば面倒で知ろうともしないことを、楽しみながら知れる。
どんな世界(分野)でも『楽しみながら』、というのは1つのキーワードに感じられますが、しかし、本当の真の意味で、『楽しみながらも知識を得られる』……それは読書でしか成しえないことではないのかなと、私は思い考えています。
あとがき
お久しぶりです。
本文にもある通り、読書をしたりとかしていたら執筆をする時間がなくなってしまいました。
自分の中にある知識に“絶対”はありませんので、なるべく多くの自信をつけるためにも、読書をするというのが大切なのではないかと……後にして思います。
読書をした後にエッセイを書くのが、最高なんです。