反りの合う、合わない人
人というのは十人十色、互いを理解できる人もいればできない人もいます。
人それぞれに個性があるように、考え方もまたそれぞれなのですから、理解できない人がいるのは当然。
それを、世間一般的に『反りの合う』『反りの合わない』と言います。
ジェネレーションギャップ然り、若者が老人を理解できないのも然り、そのまた逆も然り。
育った時代が同じであろうと、育った環境が同じであろうと、一定数、反りの合わない人はいるんです。
それがもし、育った時代も育った環境も違う――『大人と子供』『若者と老人』という括りになれば、更に理解できない人が増えるのは必然的。
万人を理解することは誰にもできないのです。
――だから、拒絶してください。
反りの合わない人を受け入れるのには、ある種精神的な苦痛が伴います。
――だから、拒絶してください。
楽に生きるために必要なことなんです。
……それでも、互いを理解しようとする人に向けて、私は言いたいことがあります。
いまの私は、反りの合わない人と何度も顔を合わせ、その度に“なんとか”仲を良くしようと努力しています。しかし、毎度々々悲しい気持ちにさせられるのです。苦痛とは言いましたが、感じるのは“痛み”ではなく“悲しみ”です。
センチメンタルという言葉を知っているでしょうか?その意味は『感傷的』ですが、これをバラバラにして解釈すると『感』を『傷』付ける『的』、です。
あともう1つ。琴線に触れる、という言葉があります。琴のつま弾く音のように感動する……なんて意味です。
私は思いました。
『感傷的』における“『感』を『傷』付ける”という部分は、『琴線に触れる』における『琴線』を傷付ける行為だ――そう解釈できるのではないかと。
琴線が傷付いてしまえば、どれだけつま弾いても綺麗な音はでないはず。美しくも儚い夢のように震えた音も、傷付いてしまえば終わりなき悪夢のように、不協和音を奏でてしまう。
精神的な苦痛とは、音の出ないラッパのように吹けば吹くほど苦しくなる。他に齎すものはなにもなく、強いて言うなら肺活量が鍛えられるだけ。ただ、より長く吹けるように耐性が付くだけ。ほんとうに、それだけなんです。
まるで声を閉じ込めてしまうように、フー、フー、と。ラッパを吹こうと頑張って、頑張って、結局なにも得られない。
もしかしたら、反りの合わない人を受け入れる……そんな人ならば、いずれその(音の出ない)ラッパは吹けなくとも、べつのラッパや更に肺活量を必要とする楽器を扱えるかもしれません。
しかし、それならば最初からべつのラッパや楽器を使えばいい。吹けばいい。
なにも、楽器はその音の出ないラッパだけではないのですから。
いずれ、玄楽器の方が自分には合っていると感じるかもしれません。ピアノだって、木管だって、そうです。ただ気の赴くままに指を動かし、それで思い通りに苦痛なく弾けるのなら、それに越したことはないのだから。
――話さなくても理解できる、反りの合う人を探してください。
――話したらより理解できる、反りの合う人を探してください。
でも、自分だけが理解できる状態は、決して“良い状態”とは言えません。
相互に理解“しあえる”状態でないと、意味はないのですから。
自分だけ気持ちよく音を出して、周りと波長を揃えることなく演奏、もしくは合唱でみんな1つになって歌おうとしているのに、自分だけドデカい声で独唱……それでは、今度は自分が相手にとっての理解できない存在になってしまいますよ。
自分が反りの合わない人と会話するのが辛いように、相手も、反りの合わない人と会話をするのには辛さを感じています。
自分が相手にとって“反りの合わない人間だな”と感じたのであれば、自分から相手を避けてみるのもいいかもしれませんね。もちろん、これは絶対でないのでしなくてもいいと思いますが。
一番は、自分から避けることですので。
……ちなみに、相手方が自分を反りの合わない人だなと、そう感じているはずなのに話しかけてきたら、無理に話を終了させたり拒絶しないことをお勧めします。
なにせ、反りの合わない人と会話するのが辛いと、そんなの誰でも分かっているはずなのに、それでも、会話しにきているのです。その人はきっと、どうにかして反りの合わない『あなた』と分かり合える道を探っている。自分が傷付いてでも、道なき道を探っている。なのに『あなた』から拒絶されてしまえば、それは、そんな健気な『その人』の努力と受けた苦しみを軽視することに繋がります。
――だから、受け入れてください。
反りの合わない人を受け入れるのには、ある種精神的な苦痛が伴います。
――だから、受け入れてください。
その人はきっと、あなたの人生を彩ってくれますから。