文は生き物。鮮度が命ってワケ
この前、友人に「文は動くんだよ」と言ってみたら、「いや動かん。なに言ってんの?」と言われてしまいました。たしかに、よくよく考えてみると物理的には動いていない気がします。(※物理的には考えなくても動いていません)
そこで、今日はこの「よくよく考えてみると」が創作には悪影響だよ、ということについてお話していきたいと思います。――なるべく手短に。
先に言っておきますが、これらはあくまで私個人の主張です。考え方や創作の仕方は人それぞれであって、論理的に考えた方が捗る人もいれば、感覚に頼った方が捗る人もいます。私は後者なので……というお話。
さて、本題に移ります。
私が純文学作品を執筆していることは、いままでのエッセイを読んでくださっている読者様なら、既知の情報かもしれません。あれらを執筆するに必要とした時間はお話にも寄りますが、大抵は1~3日の間で完成させています。もっと言うと、それらの“大枠”は1日や、短ければ数時間で完成しているので、やろうと思えば毎日投稿できた“かも”しれません。しかしそれでも4日間隔であったのは、確認作業(とは言いますが、私の場合明らかな誤字脱字以外は修正していないので、投稿間隔を空けるための建前だったり)を必要としていたから。
一度でも執筆を経験された方であれば、なるべく一気に仕上げてしまいたいあの感覚、分かるのではないでしょうか?
ノッている時に書き切ってしまわないと、後で苦しむのは自分なのです。
たとえば深夜テンションで考えてみましょう。
限界まで起きて疲れきった脳は、正常な判断能力を失っています。普段では考えられないような奇異な言動をとったり、明らかに「そう(深夜テンション)」でないと出来ないことをしてしまいます。急に踊ってみたり、静かな空間で大声を出してみたりなどなど……。
ですが、裏を返せば「そう」ではない時――深夜テンション特有の奇異奇怪な言動は出来ません。
至極当然のようにも聞こえてしまいますが、つまり「深夜テンションで出来ること」と「普段のテンションで出来ること」には違いがあり、思考プロセス自体がまったくの別物であることを示しているのです。簡単に言えば『思考の視野』が違う。見えている世界そのものが別物であるというのに、「同じこと」が出来るのでしょうか?
真後ろにツミキがいくつか置いてあったとしましょう。
普通の人に「あなたの背後にあるツミキの個数を、振り返らずに当ててみてください」なんて言ってみたら、まず答えられません。仮にランダムな数字で回答してみても十中八九外れることになるので、それは博打と変わらない運試しとなります。
しかし、これは普通の人であったらという条件下であることを忘れてはいけません。
もしこれが『背中に目が付いている人』であったらどうなるのか。
――答えは、もう見なくても分かりますよね?
このように『視野』の違いとは大きいものなので、同じく『思考の視野』における違いも、大きいのです。
さて。これらの事を頭に入れて、もう一度今回の話の本筋について考えていきます。
まず初めに、私は「『よくよく考えてみると』が創作には悪影響だよ」と言いました。
そして次に、私は「ノッている時に書き切ってしまわないと、後で自分が苦しむよ」とも言いました。
聡い方であれば、もう既に私の言わんとすることをお気付きかもしれません。
お気付きでない方は、私と共にその謎を紐解いていきましょう。
――1つ。『ノッている状態』と『よくよく考えている状態』は違います。
――2つ。『ノッている状態』とは『普段より生き生きとした状態』……つまり『深夜テンション』と酷似しています。
――3つ。深夜テンションのお話であった通り、状態が違えば思考のプロセス……つまり『思考の視野』も違ってきます。
もうこれで、皆さんお分かりになったのではないでしょうか?
あえてその答えは明記いたしませんが、これはとても単純なもの。一個一個深夜テンションのお話に当て嵌めていけば、自ずと答えは見えてくるはず。
皆さんも、【一貫した質の高い小説】を執筆したい場合は、『ノッている状態』で書き切ってしまうか、『よくよく考えている状態』で書き切ってしまうかを選んだほうが、いいかもしれません。
……余談ですが、私の純文学作品の第一話目は一ヶ月ほどでちまちまと書いていたので、「なんだかこことここの場面の温度差すごくね?」とか、「こことここで微妙に書き方違くね?」が起きている可能性があります。
そうならないためにも、ほんのすこしだけ、このエッセイを覚えていただけたら光栄です。
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