あたかも真剣そうに文学について語るの巻
小説、皆さんはお好きでしょうか?
――愚問ですよね。
小説に限らず文学や日本語という括りにまで広げれば、読者様の大半は「好き」だと言ってくれるはず。
これは、決して私個人の希望的観測ではないと思っていますし、そもそもの話をすると、『小説投稿サイト』を閲覧している時点で、【文学】に興味があると言っているようなもの。興味がないのに、チラッと『そういうモノ』を覗き見して、「いや待ってください!私は興味がないので無罪なんです!!」、と言っても信憑性皆無というか、普通に捕まります。
私も当然、小説は好きです。前にも書かせていただいた通り、なかでも【純文学】というジャンルが私のお気に入り。【美】という感覚を極限まで研ぎ澄まし、それを文にして表現する……改めて言葉にすると、なんだか仰々しいですね。実際のところ極限までかどうかは置いておいて、(私が思う)本当の意味での【純文学】を達成できている作品は、非常に少ないと思います。
まあ考えても詮無いことで、時代の移り変わりによって【純文学】も形を変えているのでしょう。かの著名な自然学者【チャールズ・ロバート・ダーウィン】も、こう言っています。
「It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change(生き残る種とは最も強いものではない。最も知的なものでもない。生き残る種とは、変化に最もよく適応したものである)」と。
要するに、「生き残れるのは変化に適応できるやつだけだよ」、って意味です。
これは生物の進化に言及しているものなので、厳密には『まったく同じ』ではないかもしれませんが、似たようなことが小説にも言えるのではないでしょうか?
まずは昔の作品(の傾向)から見ていきます。
昔(1900年付近)の小説は私が知る限り、まず異世界モノというジャンルがありません。いつできた概念なのかも知りませんが、少なくとも最近であることは確実です。
ほかにも、昔の小説は私が知る限り、なにかひとつ大きな【テーマ性】を持っています。【命】とか【生命】とか【地球】とか【人間関係】とか。1900年付近なら【アレ】もテーマになっていたりしますよね。もう少し後の方なので1940年付近でしょうか。作者がなにかしらの影響を受け、思うところがあって書いたのだろうなと読み取れる、そんな作品が多い印象です。
あと、たまたまかもしれませんが、私が読んだことのある『昔の作品』というのは、どれも暗い雰囲気を持っていて、すこしドロリとしてディープな表現を使っているのも特徴的。
それに、妙に句読点が多いのも特筆すべき点でしょう。
なぜ?とかそういう疑問は後回しにしておいて、次は最近の作品(の傾向)について見ていきます。また長くなりそうなので少し端折り気味で。
最近の小説はもうお分かりかもしれませんが、異世界モノが極端に多い。いわゆる【ライトノベル】で溢れかえっています。
この前の投稿(『いいかい?私は疲れてしまったんだよ』)にて、【純文学】と【ライトノベル】の違いを私なりに述べさせてもらいましたが、もし【ライトノベル】と【昔の作品】に違いを見出すなら――【ファンタジー要素があるかないか】でいいかもしれません。私が思うに、もっと本質的な、時代の移り変わりによって生じる『ニーズの違い』があるんですけど……ざっくり言うと【ファンタジー要素】の有無で見分けられると思います。
現実が厳しい世界になったのか?と言われればそんなこともないと思うんですけど、なぜか昨今では非現実的な世界観が求められる傾向にあるんですよね。――現実から逃げるな、です。私は純文学から逃げてます。
それで、他にも【昔の作品】と【今の作品】で違うところがあります。
もう既に書いていますけれど――句読点の数。これが違うんです。
なんでもいいので、暇な時に1900年付近に出された小説を読んでみてください。きっとすぐに、「ワッ!句読点オオスギ!メチャヨミヅラ!!」、ってなると思います。
そしてそのあと、いつものように最近の小説を読んでみてください。きっとすぐに、「わっ、読みやす!ツルツルじゃん!!」となります。めちゃくちゃツルツルです。摩擦ゼロです。
これが実は、私の言う【純文学における美】の一つなんですけど、まあ……最近は見ない。悲しいことに、ほとんど出会えていません。なろうで見れたら多分奇跡レベル。
今の時代、ニュースなどを見てみると、どうやら『なんでもかんでも倍速』の時代らしいですから、当然かもしれません。これまた、私が最初に投稿したエッセイで「時間は有限だよ」、という話がちょろっと出ました。時間は有限なので『時短できるもの』は『時短』する……最近の時代の流れや変化によって、このような思考が生まれてしまったのでしょう。
残念なことですが――賢いです。
ここで一つ質問をしましょう。果たして、ここまでのエッセイ……全部読んだ人は、どれほどいるのでしょう?
まさか、飛ばし飛ばしで読んでいるのではないでしょうか?
それとも、堪え性がなくて途中で読むのを諦めてしまったでしょうか?
まあ、文学が好きな人に『堪え性がない』なんてありえないと思うので、心配はしていません。
しかしながら、『変化に適応』できなければ『生き残る』ことはできないのもまた事実。
世の中のニーズは時代と共に常に移り変わっています。【純文学】とされる作品も、いまでは『ドラマ性のあるストーリー』が見られるようになり、見ている人を飽きさせないような工夫が施されている。昔の作品は『飽きポイント』がたくさんありますから、これらは『変化』なのでしょう。
これに『適応』しなければ、まず【純文学】の世界では生きられない。【純文学そのもの】の人気がそこまでなのも、【ライトノベル】の方が、より『変化に適応』できているからだと、私は思います。
もちろん『昔ながらの良作』があるように、全員が全員『適応するべき』とはなりませんが……『適応』した方がより理解を得られるのは、ある種当然の話なのかもしれませんね。
――私は【純文学】が好きです。それも昔ながらの作風が。皆さんの中にも、そのような方がいる“かも”ですが、変化を否定するのではなく、共存できる道を考えてみるのも、時にはいいかもしれません。
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