その幻想術8
「はい、はい……あー、それでしたら既にウチの左庭には話を通しているので、メールで書類を送っていただければ大丈夫かと……はい、来週の会議日程についてはそのスケジュールで問題ありません」
詩由莉の買い物に付き合った後、カフェでのちょっとした休憩を終えたところで、黒須に電話がかかってきた。相手が特二や特三の面々でなかったことで超が付くような緊急性がないことは分かったが、それはそれとして出ないわけにはいかない。なし崩し的に黒須は休日になっているが、一応は公務員である彼の同僚たちは普通に働いているのだから。ましてや、相手は神秘部——宮内庁の人間ですらなく、他省庁の人間であった。平日の昼間にその電話をスルーできるほど、黒須の心臓は鋼でできていない。
「ふふっ」
しかし、それはそれ。これはこれ。
諸々の用事を一気に済ませてしまおうという腹なのか既に10分は続いている電話に、黒須の正面で彼を見つめている詩由莉の口角が徐々に上がりつつあった。
もちろん、機嫌が良くなっていっているわけではない。
詩由莉は身内に対して本気で怒っているときには笑顔になるタイプであり、現在、臨界点ギリギリの不機嫌さであることを黒須は感じていた。
ゆえに電話口の口調はにこやかであるが、黒須の背中には大量の汗が浮かんでいる。そして、彼の横顔にも汗がたらりと流れた。
「はい、それでは……失礼します」
「お仕事お疲れ様、柊一郎くん」
ようやく黒須が電話を切ると、詩由莉が早速声をかけてきた。
台詞は労っているが、当然ながら黒須は額面通り受け取らない。そもそも、気弱な人物なら目があっただけで泣き出しそうな程の圧を出している今の詩由莉を見て、勘違いするような者がいるかは疑問であったが。
「流石に申し訳ないと思ってる……仕事とプライベートのどちらを優先するかみたいな次元ではなく、この時間は二人で過ごすと決めたにも関わらず、待たせてしまったわけだからな」
「ううん、確かに私は怒っているけど、別に柊一郎くんに怒っているわけじゃないんだ」
詩由莉は黒須から目をそらすと、南東にすっと目を向けた。その焦点は目の前のショップを通り越してどこか遠くを見ているように感じる。
自分たちがいる池袋から見てそちらの方向に何があるか、黒須は当然理解している。
——霞が関である。
「私はね……柊一郎くんにはやりたい事をやっていて欲しいの。今、柊一郎くんは超特異拉致——異世界帰還者の問題に集中しているから、それに協力したいし、邪魔はしたくない」
空気が冷えていくような、そして冒涜的な何かに侵食されていくような。
そんな言い様のない不穏な感覚が黒須を襲う。
——それは決して彼だけではないようで、何かを感じ取ったように少しずつ詩由莉を中心にして人影が少なくなっていく。
「……本当は、仕事なんてしないで、日がな一日私と楽しい事をしていて欲しいくらいなんだよ?でも、私があっちで死ぬ程求めていたのは柊一郎くんとのありふれた日常で。だからこそ、君には普通の人と同じように働いて、普通の人と同じように目的に向けて頑張って欲しい。報われないこともあることを知りつつも行う努力こそを尊ぶ柊一郎くんを好きだからこそ、変にルールを曲げるような事をせずに、なるべく私も一般的な帰還者をやっている——だけど、それは柊一郎くんの意思であり、私の善意。ちょっと最近、調子に乗りすぎかな?」
ここに来て黒須は悟る。
何も詩由莉は、デートを邪魔されただけで怒っているわけではないのだ。
そもそも彼女を縛る4つの制約。
すなわち、『あの子』との契約、あまりにも過激な自身の一面を黒須に見せたくないという自主規制、黒須との約束、そして国からの要請による制約。
それらの内の3つは、彼女が完全なる善意で守っているものである。まして、詩由莉は優先順位をつける時、国からの制約を最下層に置き、それを口にする事を憚らない。にも関わらず、政府は詩由莉に指示を出すことに遠慮がなさすぎたのだ。
加えて、最近の空斗たちが帰還した際の騒動。
本来は苦戦するはずもなく、鎧袖一触である相手に対して、数々の縛りをしたせいで彼女は苦戦を強いられた——ことに対して、そこまでの怒りはない。
問題はきちんと調整をして、きちんとしたルートで根回しをしていたにも関わらず、黒須が傷つく結果となったことである。上の都合だの、面子だのに振り回されたシワ寄せが黒須に向かった。それだけで、詩由莉の腸が煮えくり返っていたのだ。
——黒須が倒れるくらいなら、東京を火の海に変えてでも事件を収束させたかった。
それが紛うことなき詩由莉の本心であり、彼女にはそれができるだけの能力がある。
実行に移さなかったのは、ただただ彼女の善意。
それを理解していない連中が多すぎることが彼女は我慢ならないのである。
「この世界に遠隔かつピンポイントで特定の人間を消し去るような幻想術は存在しない——っていう私の帰還直後の証言に嘘はないわ。でも、この世界に既に遠透視と死贈の概念がある以上、私の権限でも創れてしまうの。それを忘れているなんて、なんて都合のいい頭をしているのかしら」
「詩由莉、それは——」
世界に存在しない概念が外から持ち込まれた時、その概念が新たに定着することはない。大抵の場合は、既存の概念に押し込められて、影響範囲や効果が変わる。
黒須たちの住む世界は幻想が衰退しているため、大抵の場合、効果や威力が制限・縮小されるのだ。すなわち、仮に異世界で「遠隔かつピンポイントで特定の人間を消し去るような幻想術」を持っていたような帰還者も、この世界でその術式をそのまま使うことは叶わないのである。
ただし、世界における権限が高い存在が無理やりに押し通せば、持ち込むことや新たに創造することができる。詩由莉が実演したことで、黒須はこの法則を知っていた。
——つまり、詩由莉が望めば、気に食わない人間を消滅させることすら可能となってしまうのだ。
「ううん、大丈夫だよ、柊一郎くん。私はそんなことはしないし、私がそれをやらないだろうことを柊一郎くんが理解してくれていることも知ってる。だけど、私のことを知りもしない連中が、どうせやらないだろうと高を括っているのは納得できないよね」
冷たく言い放つ詩由莉にかける言葉が黒須は浮かばない。
こういう時にこそ、黒須は異世界帰りの者たちとそうでない者——特に詩由莉と自分の差異を強く感じて踏み込めないのである。
目の前の少女に真っ当な倫理観や常識が備わっていないことを黒須は知っている。しかし同時に、備わっていないものの知識として有しているからこそ、彼女がそれらから逸脱しないように努力していることも知っていた。
(詩由莉は善意で我慢してくれている。努力をしている彼女を苦しませているのは、俺を含めた国か……)
自然と握り締めた拳に力が入るのを黒須は感じた。
不甲斐なさと、申し訳なさで、彼は思わず詩由莉から目を背けそうになる——が、何の力か視線は詩由莉から外すことは許されなかった。
「柊一郎くんが考えていることは大体わかるよ。それでも、私を見ていて欲しいかな。我が儘だと思う?」
「いや……むしろ、すまん。溜め込んでいるとは思ってたんだが……」
「ううん、私こそ、こんなことを言ったら柊一郎くんがどう思うかなんて分かってたのに、思わず吐き出しちゃった。甘えてるなー私」
少しだけ詩由莉に笑顔と余裕が戻る。
そうして取り繕うように黒須の右腕に詩由莉は抱きついた。
しかし、未だ完全には彼女が納得できていないことくらい黒須にも分かる。
「最強の詩由莉が甘えられる相手なんて滅多にいないだろう。俺で良ければ、時々甘えればいいさ」
「——っ!?」
「どうした?」
特別なことを言ったつもりはないのに詩由莉の返答がなく、黒須は詩由莉の表情を覗き込もうとした。しかし、その視線を避けるように詩由莉は彼の腕に顔を埋めてしまう。
既に視線を固定する謎の力は解けていた。
「————ずるいなぁ」
「何がだ?」
「もうっ、主人公はこういうの聞き逃すものだよ!」
詩由莉はガバリと顔を上げると、黒須の腕を引いて歩き出す。
何故いきなり詩由莉が怒り出したのか見当も付かない黒須は、黙ってついて行くのであった。




