異世界流離類型論8
空斗の両親の答えを聞いた黒須は詩由莉を追うことはせず、別の場所に車を飛ばした。
そして、約三十分後、黒須の姿は新宿区のとあるビルにあった。彼の所属する超特異拉致対策二課のオフィスが入ったビルも近隣にあるが、それとはまた別の——特二のものに比べて明らかに新しいビルである。
受付を顔パスで通過した黒須は、チラリと腕時計を見ながら早足でビル内の一室を目指していた。
(あれから大体一時間……ギリギリだが、まだ止められる筈だ)
そうして、黒須は目的の部屋に辿り着いた。
その部屋は端的に言うならばロッカールームであった。ただし、学校や会社、スポーツジム等にあるような簡素なものではない。どちらかと言えば、一流のプロスポーツ選手が使用するスタジアムやドームにあるようなものにイメージは近く、しかもその規模はその部屋の方が大きかった。
すなわち、一人一人の荷物を置くことや服等を掛けることができる一畳ほどの個人スペースがあり、各スペースの前には一人で座るにはやや広めなベンチが設置されていたのである。
黒須は左右に立ち並ぶスペースやそこにいる者たちには見向きもせずに、ただ部屋の奥へと進んでいった。
「……おい、見てみろよ。特二のケースNAだぜ」
「……本当だ。NAが特一に何のようだ?」
黒須に聞こえる程度の小ささでひそひそと話す声がそこかしらで交わされ、隠しもしない不躾な視線が黒須へと注ぐ。
彼らの会話内容が示すように、ここは特一のオフィスが入るビルであり、その一角の出動前待機場所であった。
そんな場所において視線以外に黒須へと降り注ぐのがケースNAという言葉。字面こそ帰還者のカテゴリを表すケースという言葉を冠しているが、公式にはケースNAというカテゴリは存在しない。
そもそもカテゴライズする意味すら、本来はないのだ。
NAとはすなわち、該当なし。つまり彼らが言うところのケースNAとは該当するケースがないという意味のであり、この世界を出たことの無い者のことを指す。そんな言葉を使う必要があるのは帰還者が多い環境にいる者だけで、そのような環境は国内でも神秘部——その超特異拉致対策一課くらいだろう。
さらに言うならば、この言葉は本来プラスの意味もマイナスの意味も持たない。大多数の人間が含まれる、「一般人」と置き換えても問題ないレベルの言葉なのだから当然だ。しかし、特一の者がこの言葉を使う時、それは侮蔑のニュアンスを含んでいることが多い。特一に所属する者は押し並べて帰還者であり、戦闘能力の高さこそを信奉する節があるからである。
「……あの化け物は連れてないみたいだぜ」
「……NAが丸腰で俺らの本部を堂々と歩きやがって」
黒須は飽くまで特二の一般職員に過ぎないのだが、彼は超特異拉致対策部門の古参のメンバーということもあり、その発言権は各課長クラスと言っても過言ではない。そのことに納得がいかない者も特一には——特にその中でも立ち上げ前から帰還しており後から特一にスカウトされた者には多く、黒須にとってはこのように特一はアウェーなのだ。
はっきり言って、彼としても来るのが気の進まないこの場所にわざわざ足を運んだのは、ある人物に会うためである。
そして、その人物は部屋の最奥、一際大きな棚の前にある、これまた一際大きなベンチに座っていた。
「——よお、お前がこんな所まで一人で来るのは珍しいな」
決して大きくはない、しかし身体に良く響く重低音。
その声に圧倒されるように、ざわざわとした部屋の話し声は、一転して完全に消え去った。
声の主の男は、一言で表すならば巨大な岩であった。
座っているにも関わらず、成人男性の平均的な身長である黒須よりも大きいような錯覚すら覚える。その上半身は黒のインナースーツに覆われているが、隆々とした筋肉が簡単に見てとれた。複数の傷痕が残る顔は、公務員というよりは戦士のそれである。
——剛鬼。
畏怖と畏敬を込めてそう呼ばれる彼こそが、超特異拉致対策一課の課長、獅子原 剛毅であった。
「俺も進んで来たいわけじゃないんだがな。非常事態だから仕方ない」
本音を隠さず、やや溜め息まじりに返す黒須。
それは課長である獅子原に対する言葉遣いでない。しかし、黒須と獅子原は神秘部に超特異拉致対策の部門ができる前からの知り合いであり、同い年かつ気心の知れた仲であるため、このような話し方を許されているのであった(このことも特一における黒須の印象を悪くしているのは言うまでもない)。
「非常事態っていうと、今出ている反応のことか?確かにこいつはケースBの上位層の反応だが、お前が焦るほどの事態でもないだろ。ましてや、お嬢が出張るような案件じゃねえと思うが?」
「先ほど観測された未登録の幻想術行使反応は特二の案件だ。俺たちに任せて欲しい」
「……おい、ちょっとこっち来い」
がしりと音が出そうな勢いで黒須の腕を掴むと、獅子原は半ば引きずるように黒須をロッカールームから連れ出し、近場の空いた部屋へと連れ込んだ。同い年ではあるが、獅子原の貫禄は既に四十代でも通じるレベルなので、完全に説教部屋に放り込まれた部下の図である。
「くっそ——嫌な予感はしてたんだ。何せ、記録によると幻想術を行使した未登録の反応のすぐ後に、お嬢の反応もあったからな。きっと何か訳ありで、お前らのテリトリー内で済ませたいんだろ?だが、そいつは厳しいぜ。ウチの連中は俺が何とか宥めるにしても、上も乗り気になっちまってる」
「上……?帰還初期の帰還者の暴走鎮圧は特二と特一の中間案件。特二から正式に引き継ぎがあるか、特二が完全に事態を制御できなくなった時のみ、特一に担当が移るっていう決まりだろ?」
神秘部は特殊な術器——幻想心臓を持つ者が幻想力を流すことで幻想術の行使やその補助を可能とするアイテムであり、分かりやすいところでは魔法の杖や指輪などが当てはまる——を日本中に設置し、日本全体を儀式場とすることで幻想術の発動を監視している。これにより、ケースAクラスの帰還者が本気で隠蔽しても、幻想術の発動した痕跡を神秘部から完全に隠し切るのは難しいのである。
このシステムはRDS——帰還検知システムよりも技術的には簡単であり、情報もより多く手に入れることができる。すなわち、幻想術の発動者が登録されている人物か、未登録の人物であるかを判別する事が可能なのだ。この時、未登録の者が幻想術を発動させた場合、基本的には特一の領分となるが、その数少ない例外が特二で対応中の帰還者が暴走した場合なのである。
「特二の案件だっていうのに既に特一に話が来てるってことは、上は事態が既に特二の手を離れたと判断したってことだろう」
「それは俺たちに何の通知も無しに決定することではないだろ!今から抗議を——」
「それが厳しいって言ってるんだ。今思えば、特一に出動の命令が下るのが妙に早かった。お偉方はいよいよ人員も揃ってきた特一を実戦で試してみたいんだろうさ。今のところの特一の交戦記録は非公式時代にお嬢に蹴散らされたものだけだ。それだと金や装備を引っ張りづらいんだろう」
「馬鹿な!そんな理由で特一を出すのか!?」
「おいおい、元々そっちの分野はお前の方が得意だし、よく知ってるだろう。人情だけじゃ政治は動かないし、超特異拉致対策部門は新設のために無茶を通したツケも貯まってるんだ」
それは黒須も良く理解していた。
というより、黒須こそが左庭と協力して無茶を通した張本人の一人なのである。
そもそも超特異拉致対策部門は帰還者をある種の国益に活かすことを前提とする事でどうにか成立した背景がある。そんな怪しげな部門の上——担当者や責任者に名を連ねるのは、腹に一物も二物もあるような者ばかりだ。
そんなことは百も承知の黒須であったが、その顔は口惜しげに歪んだままであった。
「——相手は子供なんだぞ」
神秘部の事情や政府の思惑。
そんなものは帰還者には関係ない。
彼らは騙し討ちのように異世界に拉致され、そして命懸けでようやく戻っただけなのだから——その思いが黒須の身の内を焦す。
「……分かった。してやるよ、お前の好きな努力ってやつを。だが、どんなに良くても三十分が限界だ。最悪、一秒も稼げない場合もあるからな?」
獅子原は仕方ねえなと言わんばかりの表情で、深く息を吐きながら言う。
期待するなよ、と念を押しているが、彼の眼は簡単には諦めるつもりはないと物語っていた。
「——ああ、助かる」
「この件に片がついたら奢れよ」
背中越しに言いながら、やや重い足取りで獅子原は部屋を出ていく。
黒須は腕時計で時間を確認すると、彼に続くように走って部屋を後にした。




