「普通じゃない」登校
それは偶然だった。
大学につまらない講義を受けるために通う日々。
入学して一年と数か月。その冗長な毎日に、いい加減嫌気がさしてきた頃。
電車での通学時間。毎週この時間は苦痛だった。
人、人、人。
目に入る範囲にいるのは、右隣、スーツをきちんと着こなした若いサラリーマン。つり革を両手でつかむ彼は、一体どんな仕事をしているのだろうか。正面、大して暑くもないのに、少し寂しくなり出した額の汗を懸命に拭う、こちらは年配のサラリーマン。スラックスもシャツもその限界を訴えるかのようにパンパンに張っていて、この混雑した車内で二人分のスペースを使用している。手に持った上着は着古されてくったりしている。斜め前の広めのスペースには、長い髪を各々様々にアレンジして、スマホを手に騒ぐ女子高生。彼女たちがボタンを二つ目まで外し、スカートの丈を明らかに上方修正して着ているあれは、この次の駅の近くにある有名私立の制服だ。その奥に見えるのは、外界からの音を遮断する、どころか周りにまでその趣味を押し付け、ダルそうな目で外を走る景色に目を向けている俺と同じくらいの、おそらく学生。重そうなバックパックを足元に置いて、一応この混雑した車内に気を使っているところを見ると常識がないわけではないらしい。誰か、彼にお気に入りのアイドルグループが周りにダダ漏れであることを教えてあげるべきだろう。もしくはイヤホンの買い替えを検討させるべきか。なんにせよ、それは俺の役目ではない。俺はそこまで親切な人間ではない。残念ながら。
ドアが開く。
人、人、人。
女子高生の団体が下りて行った代わりに、それを上回る人間が乗り込んでくる。
この駅で、この車両に乗り降りする人は大体決まっている。しかし今日は例外なようだ。見るからに素行の悪そうな、世間ではヤンキーと総称される若者の集団が他の乗客を押しのけて乗車してきた。関わり合いになりたくない。瞬時にそう判断して、今まで出入り口に向けていた目を、できる限り自然に見えるよう瞬きと同時に、車内広告に向ける。
夏に企画されている温泉バスツアーの広告だ。なんの面白味もない。
いつもと違う、そして通勤ラッシュの電車にはあまりに不釣り合いな集団に、車内の緊張感がぐっと高まったのを感じた。目は逸らしたものの、気にはなる。耳だけはしっかりと彼らの方に向けておく。
「やばくね。この人ゴミ。」
「あーあ、何が悲しくてこんなクソみたいな乗り物にのらなきゃなんねーんだよ。」
甲高い声で文句を言い合いながら、ヤンキーたちは俺の立っている、空いたドアとは反対側のドア付近まで進んでくる。大変よろしくない。ヤンキーの中の一人の肘が俺の脇腹に押し付けられる。視界の隅に入ってきたその髪は見事な金髪だ。どうも俺の脇腹に押し付けられて、動く気配のないその肘の持ち主も、その金髪君なようだ。身をよじってはみるが、ドアと座席に動きを制限された中では大した抵抗は出来ない。肘はわき腹から離れない。そうこうしているうちに電車はドアを閉め、また走り出した。
発車の衝撃で、乗客のほぼ全員が慣性の法則に従って同方向に動く。俺はそれを見越して、その衝撃を座席に吸収してもらえるこの位置を陣取ったというのに。今日はそれが仇になった。金髪君の肘が俺の脇腹に食い込む。地味に痛い。腹に力を入れたが、無駄な抵抗だったようだ。
ヤンキーたちは他の乗客の存在などないかのように大声で話し続ける。一人、二人、三人、四人。なんだ、意外と少ないじゃないか。その威圧的な黒色と金色のスウェットのせいでもっと人数がいるのかと錯覚していた。朝、公衆の面前で、しかも大声で話すのには適さない話題ばかり。「昨日まわした女の具合はどうだった」。「まわした」の意味など考えたくもない。「三番目の彼女が妊娠したらしい」。同時進行で一番目の彼女と二番目の彼女がいないことを祈るばかりである。
とにかくそういった類の話だ。目も当てられない、当てる気もないが。
その内、俺の腹に肘を突き立て続けている金髪君がきょろきょろとあたりを見回し始めた。
「なあ、あそこの、ふちの子。かわいくね。」
彼はそう言って、俺と向かいに立った誰かを指さした。残念ながら、俺からはその可愛い「ふちの子」は、汗をぬぐい続ける年配サラリーマンの影になっていて見えない。しかし、ヤンキーたちがその子に興味を持ったことは俺の脇腹からありがたくも離れていく、金髪君の肘によって明らかだ。
「いっちゃうか。なあヤマ、お前言い出したんだからお前が特攻隊長しろって。」
金髪君はヤマというらしい。ゲラゲラ笑いながらヤンキーの一人が人差し指で獲物を指さす。
「しゃーねーなあ。」
仕方ないとは言いつつ、ノリノリのヤマ君は、完全に俺の脇腹から肘を離した。そして年配サラリーマンを押しのける。よろめきながらもなんとか転ばずに場所をあけたサラリーマンが俺の隣に陣取ったのと同時に、視界が開け俺の目にもその子が、ヤンキーたちの獲物がうつった。
綺麗な黒髪を顎のラインで切りそろえ、右側は耳にかけている。小さな耳だと思った。少し幼めの顔だちではあるが、その切れ長の目を活かしたメイクのおかげで幼稚には見えない。青いワンピースは膝丈で、胸元には真珠のネックレスタイプの飾りが揺れている。胸のあたりで組んだ腕は細い。肩から垂らしている白い鞄からは同じく白いイヤホンが揺れて、小さな耳に繋がっている。
そんな彼女に四人組はずかずかと近づいていく。彼女が完全に囲まれた。彼女の隣に立っていた、これまた年配なサラリーマンはこちらも簡単に押しのけられた。
ご愁傷さま。
俺だって、こんな場面に出くわしたくはなかった。きっとこれから彼女は、あのヤンキー集団に囲まれて少しばかり怖い思いをするのだろう。少し、いや、俺が彼女の立場であれば少しばかり身の危険を感じるかもしれない。俺が下りるのはあと三駅先の駅だ。それまでヤンキーたちの彼女への攻撃は続くのだろうか、きっと続くだろうな。そんなことは、俺から離れる寸前、ヤマ君が見せたぎらついた目を見れば分かる。可哀想だとは思う。しかし、俺に何ができるというのか。武道をたしなんでいるわけでもない。特別正義感が強いわけでもない。まして漫画の主人公でもない。こんな俺に。
彼女を助けるのは俺でなければいけないわけではないだろう。さっき押しのけられた年配のサラリーマンでもいい、向こうでこちらの様子にちらりと目をやって見て見ぬふりを決め込んだ、音漏れの彼でもいい。この車内にいる、前の会話を聞いていた誰だっていいはずだ。誰だって、いいのだ。
そう言い訳した俺の脳裏に、コンマ数秒、半年前に別れた彼女の泣き顔が浮かんだ。
「まもなく~…」
この危機的状況を知らない車掌が間延びした声でもうすぐ次の駅であることを知らせてくる。ここでは罪なき女性が今にもナンパ被害にあおうとしているのに。なぜか、心に小波がたった。ちらりと時計を見る。強さを増しつつある日差しに照らされて、入学祝でもらった高級時計の縁がきらりと光った。
電車がブレーキをかけだす。乗客全員が同時に変な揺れ方をする。
その動きに振られて外を見ていた彼女が目の前に視線をやる。当然事の次第に気づいたようで、怯えた目でヤンキーたちを見上げるのが見えた。
電車が止まる。
ドアが、開いた。
瞬間、俺の身体は勝手に動いた。足が、手が。
自分のリュックを掴み、足元から引き上げる。目の前にいた金髪のヤマ君を、リュックを持った手で押しのける。胸の前で組まれた彼女の手首をつかむ。同時にリュックを、彼女の手首をつかんだのとは反対の肩にひっかける。彼女をヤンキーたちの間から引きずり出す。スマートになんてできない。きっと彼女は痛い思いをしただろう。ヤンキーたちの乗車が可愛く見えるほど乱暴に他の乗客を押しのけ、その間を縫って。走った。外に出た。まだ走る。
人、人、人。
溢れかえる人を押しのけ、動かないエスカレーターではなく階段を一気に駆け降りる。
この階段を下った左手にトイレがあったはずだ。
階段を下りきる。左に曲がる。あった。トイレだ。
障がい者用トイレに、俺は人生で初めて、ためらうことなく入った。
入った途端電気がつく。彼女を中に押し込み、間をあけずドアを閉める。後ろ手で鍵も閉めた。
完璧だ。これで完璧に、遅刻だ。俺の頭に、まず浮かんだのは、彼女の心配でも、逃げ切った安堵でもなく、今日の一限の講義に間に合わないという事実。悲しいかな、俺はそういう男だ。
ふう、と息をつく。すると状況が見えてくる。
これは、非常に、まずいのではないか。
密室、女性と二人、誘拐。そんな単語が頭に浮かんでは消えていく。
膝に手をついて肩で息をする彼女。
「あ、あの…―」
「大丈夫ですか」。そう声をかけようとしたのだが、俺の声帯より先に彼女が動いた。
顔をあげる。切れ長の目が僕を捉える。
どのタイミングで耳から外れたのだろうか、まだついたままの左耳のイヤホンに振られるよう、外れた右耳のイヤホンが彼女の膝についた手のあたりで揺れた。
「あ、ありがとうございました。」
あぁ、よかった。賢い子の様だ。自分の身に起こりかけたこと、俺がその窮地を救ったヒーローであることをきちんと理解している。すばらしい。
「大丈夫?怪我とか、してない?」
「どういたしまして」なんて死語を口に出すのもためらわれ、元々言おうとしていた言葉通りに口を動かす。
彼女は足を曲げ伸ばしし、一通り自分の姿を上から下まで見回して、笑顔で頷いた。
目が少し垂れて、より幼い印象を与える笑顔だった。
「あ、そう。じゃあ、俺、行くから。落ち着くまでここにいてもいいと思うよ。」
残念ながら俺は本物のヒーローではない。彼女の肩が震えていることに気づいていても、その肩に手をまわして、抱きしめるなんて芸当は出来ない。笑顔を浮かべたときに垂れた目尻のそのふちにきらりと光るものに気づいたとしても、優しくそれを拭うことなど、できないのだ。
さっきだって、勝手に体が動いただけだ。助けようと思って助けたわけではない。
人が聞いたら、無責任だと怒るだろう。だが俺は全力で俺を弁護したい。俺は、動いた。彼女をヤンキーたちの魔の手から、直接的な意味で救った。その上傷ついた彼女の心を癒すことまでが、俺の責務ではないだろう、と。
俺は、踵を返してトイレのカギを開けた。ドアを俺一人が通れるだけ開けて、一歩外に出る。ドアを丁寧に閉めて、歩き出す。
二限以降も講義はある。学校には行かねばならない。
歩きスマホはいけないというポスターを見ながら、ポケットのスマホを取り出して、同じ大学に通う幼馴染に、一限の授業の間に合わないと連絡を入れる。
そして再び電車に乗り込むべく、スーツが目立つ列に並ぶのだ。
数分待つと電車が滑り込んできた。ドアが開く。押し込まれるように電車に乗り込む。ドアが閉まる。
―電車のドアが閉まるのと同時に、俺の非日常、ほんの少しの冒険譚は終わった。