062「オレンジシティー一区」
ヴェロニクが東の島国へ帰ってから、いく日か経った。
「あいにく、パトロール実習中ですから。お気持ちだけ受け取っておきます。ごきげんよう」
ツルのように注ぎ口が細く優美な曲線を描いているじょうろを片手に、花壇のパンジーに水もまかずに鉄製のフェンスの向こうから話しかけてくる貴婦人に、にこやかな営業スマイルでテオが応対してその場を離れると、通りの反対で両手に二本の木の枝を持ち、そのあいだで白木の警棒をプロペラのように回して暇をつぶしているドミニクの近くへ寄り、声を掛ける。
「ドミニク。君は、いつからデビルスティック使いになったんだ?」
「おっ、とっ、よいしょ。な~んだ。ご相伴に預からなかったのか。奥さまサロンでティータイムを楽しめよ、テオ。やいやい、このモテモテくんめ。いっそのこと、そのまま若いスズメにでもなってしまえ!」
木の枝を二本とも左手に持って脇に捨て置き、右手で警棒を器用に掴んで腰のベルトに差すと、やや非難めいた口調で茶化す。するとテオは、とんでもないとばかりに首を小刻みに横へ振り、苦い物でも口にしたような表情で言う。
「ツバメのことか? 冗談じゃないよ。有閑マダムにつかまったら最後、延々と天気や草花の話や、家族や使用人の愚痴を聞かされるんだ。耐えられないよ」
「お茶代と割り切れば、安いと思うけどな」
「善意で勧めてくるから、余計な神経を使うんだ。途中で、下手に断るわけにもいかないだろう?」
「小さな親切、大きなお世話。ボランティア精神は立派だけど、思いやりの押し売りは困るね。もはや、それはエゴでしかない。――それにしても、眠くなりそうな陽気だし、職務質問する相手もいないしで、じつに退屈だな。なんだって、一区を引き当てるのさ?」
そう。二人は朝の抽選の結果、高級住宅街が広がるオレンジシティー一区の担当になったのである。ときおり、キレイに整備された石畳の上を馬車が通り過ぎるくらいで、不審者らしき人物も、喧嘩やもめごとの気配もなく、実にのどかで平和な空気が流れている。
空を見上げれば、紺碧に綿菓子のような雲がゆーっくりと漂っている。耳をすませば、かすかに小川のせせらぎの音と小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「僕のクジ運にケチをつけないでくれよ。しょうがないだろう。決まったものは、いまさら覆せない」
「なんか、こう、もっと刺激が欲しいよ。嗚呼、スリルとサスペンスとサプライズよ、来い!」
雨乞いでもするように、ドミニクがひざまずいて晴天に祈ると、ただちにテオはドミニクの腕を持って立たせ、ちゃきちゃき歩くよう促す。
「変なものを引き寄せようとするな。閑静な住宅街で、ミステリアスなイザコザを起こされるのはゴメンだよ。このまま戻って、班長に『異常がありませんでした』と伝えようじゃないか」
「ウーム。それにしても、な~んか忘れてる気がするんだよなぁ。一区に、何かあったはず……、あっ!」
「気のせいだろう。何も無い、何も無……い?」
二人は、長いフェンスが途切れたところで右に曲がり、テラコッタの化粧レンガがはめ込まれたオシャレな漆喰の壁が見えてきたところで、その壁に空いた丸型の窓の向こうに見慣れた人影があるのに気が付き、目が釘付けになった。それは、誰か? 勘の良い読者諸氏なら、お気付きであろう。