黒い牛
だいたいあの男は、初めからいいかげんだった。でもあたしにも彼氏がいたし、あれは始めから終わりまで遊びで、つまりあたしたちは完全にセフレ関係で、何回か遊んだことなんか、今日の今日まで思い出しもしなかった。
それが・・・なんだ、あの態度?
半世紀のブランクを経て、その間ずっとずーーっと、あたしが自分を待ってたとでも言いたげな、あの自信満々の態度!目の前にあるのが薬を飲むためのお湯じゃなくジントニックで、茶わんを握った自分の手が、こんなに皺だらけでなくあの頃のツヤツヤした指だったら、あの思い上がったいい男ヅラになにか言ってやるのに!
そう、ここは老人福祉施設。そしてあたしは、来月で八十三才だ。まじかよ。まじだ。手術したばかりの椎間板ヘルニアのせいで休憩室のテーブルから立つのもしんどいし、一昨年作った入れ歯が最近微妙に合わないせいで喋るのもめんどくさい。そう、今のあたしには、過去の色恋のプライドより、体力の消耗の方が辛い。
だから、ムズ痒い気持ちを仕方なく抑えて、遠すぎる過去のセフレが半世紀前と同じ手口で気を引こうとするのに、ただただ・・・耐えている。そう、仕方なくだ。
セフレ君は、半世紀前に南船場のカフェバー(カフェバーって、今もあるのだろうか)でやったように、あたしの視界に入るところでほかの女・・・というかおばあちゃん・・・というか、二階の三号室の田中さんに愛想よく話しかけながら、時々あたしに視線を投げてよこす。さりげないボディタッチも忘れていない。まじか。まじだ。
「そうなんだ、僕もそこ行ったことあるよ」
「ほんと?嘘ばっかり」
「嘘ちゃうよ。僕、嘘つき嫌いやもん」
僕て。あなた、あたしのいっこ下だったよね。八十二才のおじいちゃんが一人称僕て。いや、いいのか?逆にアリなのか?
うぅ。思わずうめき声を上げてしまって、目ざとく見つけた職員さんに慌てて首を振る。違います。大丈夫です、どこも痛くないです。違うんです・・・。
明るい午後の日差しのもと、昼下がりのテレビ番組ではなつかし芸人がなつかし芸を披露しており、ついすぐそこの、外光を反射して真っ白に光るテーブルでは、昔のセフレが同じホームの仲間を口説いている。なんじゃこりゃ。カフェのカウンターではサマになっていた口説き文句も、パステルカラーのくつろぎ着では間抜けなばかり、なはずなのに。
あぁ、どうしても見てしまう。気を引く作戦は成功してるってこと?いや、あたしのことは忘れているかも・・・ボケて。そうであって欲しいような、そうであって欲しくないような。
とにかく、彼(元・遊び人)は田中のおばあちゃんの手をそっと引き、休憩室から出ていってしまった。さっきまで彼らが談笑していたテーブルには飲み残しがそのままにされていて、あたしは行ってその飲み残しを見てみたい気がする、だって、彼は紙コップのふちを噛むクセがあったからだ。
ふと思い立って、薬用のお湯に人さし指をひたした。ぬるい。しばらく置いてから指を出してみたが、指はシワシワのままだ。ああ、当たり前。あたしが愛した男たちも、愛された男たちも、一人残らずこの世から退場ずみで(まったく退屈なことだ)、
それで最後に再会するのが、あいつとは!