ハンドスピナー
夜が来てしまう前に照明を、あるいは隠れる場所を探さねばならない。
そうなるとやはり人の家に不法侵入せざるをえないだろう。
しかしキサラギはもう部屋のノブに触る事自体に恐怖を覚えてしまっていた。
部屋の全てにあの化け物がいるんじゃないか?
このマンションはあの化け物の巣なんじゃないのか?
エレベーターはあの化け物が人間をこの世界に呼ぶための仕掛けなんじゃないのか?
「マンションにいちゃいけない…」
それは恐怖にかられただけの根拠の無い発想。
しかしキサラギは名案だと言わんばかりに行動を起こす。
エレベーターは駄目だ、階段を降る。
大きな音を立てないように降りていく。
10階もあると流石に疲れたが途中で化け物に会う事は無かった。
化け物は明るい所が苦手、そうなるときっと夜行性だろう。
明るいうちに行動したのは正解だったと思う。
マンションを出ると辺り一面は木々に囲まれた大森林だ。
とは言っても植物が密集してる訳では無く歩きやすかった。
何故こんなところを歩いているのか、歩けば帰れるのか?
帰りたい、死にたく無い。
どうすれば帰れるのか?どうすれば死なずに済むのか?
歩けばお腹がすく、食べなければ死ぬ。
なんだ…、歩いてても死ぬんじゃないか、キサラギは座り込む。
キサラギは既に正気では無い。しかしキサラギ本人は冷静なつもりでいた。
どうして、こうなったのかな…、そうだ、動画配信なんて始めたからだ。
ボディバッグからビデオカメラを取り出すと中のデータを再生してみる。
そこには平和な町並み、いつもの風景、能天気な自分の顔があった。
「はは、ばかだなぁ…、ほんとばかだなぁ」
いつもの景色はほんの少しだけ安らぎを与えてくれる。
しかし動画を見ていたキサラギの表情は次第に険しくなっていった。
そう、問題のエレベーターの動画が始まったのだ。
「このエレベーターにさえ乗らなければ…」
5階に移動した時に聞こえた音、そして衝撃、今なら分かる。
あれはエレベーターの天井に件の女性が降ってきた音だ。
「くそっ、もっと普通に乗ってこいよ。ちくしょう…」
動画はエレベーターが上昇しだす場面にさしかかる。
その時だった。キサラギはふと妙な音…、いや声が入っている事に気付いた。
『き…て…ださ…』
『おり……で…』
これは誰の声だろうか、酷く弱ったような女性の声。
そういえば、天井から落ちてきた赤い液体…あれは、血だったのだろうか。
上から、血?天井の上に乗っていた女性は怪我をしていた?
良く分からないし考えてももうどうしようも無いだろう。
「腹…減ったなぁ」
そんな事より今の飢えを凌ぎたい。
一日くらい食べなくても死にはしない、しかし遠くから聞こえてくる川の音が空腹を刺激した。魚がいるかもしれない。
水の流れる音がする方へ行くとそこにあったのは案の定川だった。
綺麗な水面に魚が映る、イワナやアユを思わせる魚。
しかし残念な事に釣り竿もエサも何も無い。
ボディバッグの中を漁ってみる。
「ハンド…スピナー?」
それはベアリングで回転する玩具。それが3つも入っている。
動画配信者の間で人気になった物でキサラギもバッグに忍ばせていた。
メタリックなカラーでキラキラと光を反射している。
「これ、ルアーにならねぇかな」
その辺の頑丈そうな長い草を千切ると片側にハンドスピナーをくくりつけた。
そして川に投げ込んでみる。…結果はすぐに出た。
驚いた魚は逃げだし、草は千切れてハンドスピナーは流されて行く。
「…デスヨネー、…はぁ、何やってんだろ」
キサラギはハンドスピナーをもう一つ取り出し手元でクルクルと回す。
その回転を見つめていると現実世界を思い出して段々と気持ちが落ち着いてくるようだった。
しかし、それでも、それでもキサラギに休息は許されない。
ハンドスピナーを見つめているのはキサラギだけでは無かった。
いつの間に…、本当にいつの間にか、そいつは居た。
キサラギの目の前に、あの海老の化け物が居たのだ。
しかしキサラギはそこまで焦ってはいなかった。
目の前にいた化け物はとても小さかったのだ、キサラギの膝くらいまでの大きさしかない。
更に、その化け物はキサラギよりもハンドスピナーに気を取られているようだった。
「化け物の子供?」
キサラギはハンドスピナーを右に左にと動かすと小さな化け物も釣られて動く。
「…小さければそんなに怖くないな」
ハンドスピナーに夢中な化け物にむしろ愛嬌すら感じる。
……化け物の数が増えるまでは。
同じサイズの化け物が次々と出て来てはキサラギの周りをピョンピョンと跳ね回る。
「おいおい…、多すぎるだろ…」
その数は十に到達する。キサラギも流石に不味いと思い始めた。
「これな?これだろ?おまえらが見たいのはこれだろ?」
キサラギは平たい岩の上にハンドスピナーを置くと勢い良く回した。
キサラギのハンドスピナーは5分は回転する自慢の品だ。
小さな化け物達がハンドスピナーの周りに集まるのを確認すると、キサラギはゆっくりと、音を立てずに遠ざかる。十分に離れた後、キサラギは走りだした。
「だめだ!森もだめだ!」
キサラギは再びマンションに向かっていた。
帰りたい、早く帰りたい。
もうエレベーターが怖いとか言ってられなかった。
ハンドスピナーが無ければ詰んでいた(確信)
さて、思っていた通り短く纏められそうです。