6、俺の名は
「ちょ、ちょっと待って下さい!!」
「おぉ?」
突然、痴女に襲われ、俺はエビのように背後に跳ねて逃げようとした。
俺は別にエッチなお姉さんは嫌いではない。
正直言うと、むしろ好きだ!
だが、今はそんな事をしている場合ではないハズだ。
というか、何なんだ、この状況。
周りには化物じみたモンスターがいて、命がけで逃げてきて、とてもそんな事をしている場合ではないんじゃないのか。
このままあの魅惑のボディに身を委ねては頭がおかしくなりそうだった。
俺は俺で急に赤の他人を助けようとしたり、この人はこの人で所かまわず盛っていたり、この世界に来るとおかしくなってしまうのだろうか。
思考が混乱する。
「ちょっと待った。それ以上は、死ぬぞ?」
逃げようとした腕を掴まれ、一気に引き寄せられた。
女性の細腕とは思えぬ膂力に成す術なく深い谷間に吸い込まれる。
「うぶ!」
「落ち着け、少年。別に取って食おうなんて思ってないから。無理やりナニするつもりもないし」
耳元で子供をあやしつけるようにそう言って、グルンと体を反転させられた。
すぐ目の前に透明な壁がある。
いつの間にか端の方に寄っていたらしい。
「この不可侵領域の中でならいくら騒いでもらっても構わないが、ここから出れば匂いに誘われてオークが寄って来ちまう。君も命は大事だろう?」
俺が飛び出しそうになったから引き寄せてくれたらしい。
また助けられてしまった。
「ご、ごめんなさい! いきなり、その……襲われるかと思って、つい」
「そんな恰好だからてっきり誘ってるのかと思ったんだけど。人を痴女みたいに言わないで欲しいなぁ……」
落ち込み気味の表情のまま、その人の視線が俺の股間へと向けられる。
俺は【純白のブリーフ】一つしか身に着けていないほとんど全裸に近い恰好だった。
逃げるのに夢中で忘れてしまっていたのだ。
股を閉じて隠そうとして見るが、どうしようもなかった。
「と、とにかく! 俺はあのオークを倒さなくちゃいけないんです! だから、お願いします! 協力してもらえませんか!?」
どうしようもなかったので勢いで話題を逸らす。
このままじゃまるで俺の方が露出狂みたいになってしまうじゃないか。
好きでこんな格好しているわけでもないのに。
「オークを倒すって、正気か?」
突然の俺の話に目を丸くする女性に、俺はこれまでの経緯をザっと説明した。
言葉にしてみれば、見ず知らずの少女を助けたいというだけの単純な話だ。
その少女があのオークの肛門に突っ込まれたという所は冗談みたいな話だと自分でも思ったが、とにかく正直に全て話した。
「なるほどね。オークの非常食にされてしまった誰かさんを助けたい、か。」
意外にも、女性は俺の話を疑う事なく聞き入れてくれた。
「非常食、ですか?」
「あぁ、そうだ」
例えばリスが頬袋に木の実を詰め込むように、例えばクマが獲物を土の中に埋めて隠すように。
オークは獲物を自身の肛門の中に隠し持つ習性があるらしい。
「アイツは見た目と違って新鮮な肉しか食わないんだ。十中八九、その女はまだ生きてるぜ」
「……詳しいんですね」
それも意外だった。
あのオークはこのエリアのボスらしい。
ほかのモンスター、ゴブリン達に比べても巨大で、見るからに危険そうだ。
つまりは、出会ってしまった時の生存率も低くなるハズである。
そうなれば情報を持っている人も少なくなる。
「私も、アイツには借りがあるんでな」
「借り……?」
「あぁ、デカい借りだ。そうだな……自己紹介がてら、少し私の話をしようか。焦ってるんだろうが少し落ち着け」
そう言ってやさしく俺の頬に触れた女性の笑みには、先ほどまでの妖艶さよりも、母親のような優しさがあった。
「私の名前はアルガってんだ。アルガ・ペスカ」
アルガさんの話によると、この世界には次々と人が放り込まれてくるらしい。
俺が一人でいたのはただの偶然で、単純に運が悪かっただけのようだ。
聞けば、アルガさんには同じタイミングでこの世界にやってきた同期のような人がいた。
お互いに素性は知らない他人同士だったが、俺と同じように目的を理解し、そしてダンジョンをクリアするために行動を共にした。
「どうも私は補助がメインのキャラクターに設定されているらしくてね。前衛タイプのあの子には何度も助けられた。そして、やっとこの階層から先へ進む道筋が見えてきた時だった。アイツと出会ってしまったのは……」
地下へ進む階段を見つけた時、その道を塞ぐように現れたのがあのオークだったらしい。
運の悪い事に周囲にはゴブリンもいて、逃げるに逃げられなかった。
アルガさんの戦友は倒れ、捕食された。
そしてアルガさんは、生き延びた。
アルガさんは逃げ延びながら、そのまま次の階層へ進む階段へたどり着いた。
けれど、先へは進まなかった。
「女のカンって奴だろうな。あの階段を進んだらココに戻れなくなるって予感がしたんだよ」
だからアルガさんはその道を先へ進まず、この階層に留まった。
あのオークを倒すために。
友の復讐を果たすために。
「そういうワケで、この階層で準備をしてたんだ」
アルガさんは倒せるゴブリンを倒してアイテムを集め、できるかぎり装備を充実させた。
そして同時に仲間を探していた。
新しい人との出会いは少なくなかった。
何度も俺のような新入り助けたらしい。
だが、あのオークの強さを見て、共に戦おうと言ってくれる人はいなかった。
勝算は高いと言えないリスキーな戦いへの参加を無理強いは出来ず、アルガさんは新入り達に先の階層へ進む道を教えて、それでも一人、ここに残った。
「その時にいつも頼んでるんだよ。もしもこの階層に戻ってこれるなら、教えてくれるだけでいい。何か戻れた印になる物を置いて行ってくれ。ってね」
だが、その痕跡は今もない。
おそらくはアルガさんが最初に感じたというカンが当たっているのだろう。
紙テープの助言から推理するなら、恐らくはここはチュートリアルエリアだ。
そしてほとんどのゲームにおいて、チュートリアルは一度しかないのが普通である。
だからアルガさんはこの階層で手に入る装備やアイテムでオークに戦いを挑もうとしている。
本当なら、先へ進んで装備を強化したりするべきなのだと思う。
ダンジョンRPGならそれが定石というものだ。
でも、それが出来ないから。
それは一種の縛りプレイのようなものだ。
「そうだったんですね……」
話を聞き終えて、俺は納得する。
なるほど、詳しいワケだ。
オークについても、このダンジョンに関しても。
「そういうワケで、オーク退治。その協力なら、むしろ私からお願いしたいくらいだよ」
差し出してきたアルガさんの手を、俺は強く握り返した。
「はい! 俺、どこまで役に立てるかわからないですけど……よろしくお願いします!」
「おう! ……えーと、そういえば名前、なんだっけ?」
言われて、俺は気が付いた。
「俺の、名前……」
俺の名前って、なんだっけ……?
思い出せなかった。
そうだ。
俺は気がついたら、ココにいて、多分、っていうか絶対ココが元の世界じゃないって事はわかるんだ。
なんとなくだけど……。
そして、何故か全裸で……あとは……
思い出せない。
それ以上の事は何も思い出せなかった。
「なんだ、そこまで忘れちまってるクチか。まぁ良い。だったら私が名付け親になってやるぞ」
この階層で何人もの新入りを見てきたというアルガさん曰く「だいたいみんな記憶喪失」だから別に気にしないで良いらしい。
アルガさん自身も元の世界の事はあまり覚えていないらしい。
だから慣れているのか、軽い感じのノリで俺の名前を考え始めた。
記憶喪失の程度は人によってまちまちらしい。
名前まで覚えていないのは珍しい部類みたいだが、本当に気にしなくていいのだろうか。
結構大事な事に思えるんだけど。
「安心しろ、こう見えてネーミングだとかに関してはセンスある方だと自負してるんだ」
「いや、なんかそう言われるとすっごく不安なんですけど」
アルガさんのドヤ顔が俺の不安を掻き立てる。
いや、可愛いんだけどさ。
「よし、お前の名前はシロだ」
「決めるの早っ! そして何か雑!?」
すごく安直な名前だった!
完全にこの【純白のブリーフ】見て思い付いただけだよね!?
「ん? いや、うん、そんな事はないぞ! すごく頭を捻ったからな!」
こうして俺の名前はシロになった。
ペット、という単語が俺の脳裏を掠めたが、それは気にしないことにした。