5、不可侵領域
その人が何かを呟いた瞬間、俺たちの周囲では確かに何かが起こった。
目には見えないが、それだけはハッキリと感じることができた。
閉じかけた瞼を無理やり開いて周囲を見れば、その人を中心に、ほんの数メートルの空間が透明なドームのような何かに覆われているようだった。
俺を追ってきていたゴブリンは、そのドームの少し手前で立ち止まり、キョロキョロと辺りを見回している。
どうやらそこで俺を見失ったらしい。
恐らく、そういう効果のある魔法を使ったのだろう。
フードの付いたローブのような格好と言い、杖と言い、なんとなくそう思った。
どういう原理なのか、このドームの中にいれば近くのモンスターにもバレないらしい。
「この子は少し邪魔だね」
その人はローブの首元に手を入れると、そこから小さな短剣を取り出した。
「ちょっとだけ待っててね」
そう言って俺を地面に優しくおろし、ドームの端へ向かう。
俺を探しているらしいゴブリンが透明なドームに近づいた一瞬、ゴブリンの腕を引き、ドームに引き入れた。
そのままゴブリンの背後に回り込み、喉元を一閃する。
「」
ゴブリンは悲鳴をあげる暇もなく光に変わり、そして二枚のコインに変わった。
「ふぅ。これで一先ずは安心だ」
その人はコインを拾い上げ、血を拭った短剣と一緒にローブの中に仕舞って、俺の方へと戻ってくる。
俺の頭を抱きかかえると、柔らかな太ももに乗せて、優しく撫でてくれる。
柔らかな髪の毛がフワリとフードの隙間から滑り落ちてきて、頬がこそばゆい。
でも、まだだ。
まだオークがいる。
俺を追っていたのはゴブリンだけじゃない。
安心するにはまだ――――
それを伝えようと口を動かすが、極度の疲労のせいか上手く動いてくれない。
「あっ……うっ……」
「しっー。大丈夫だから、ジッとしてな」
そんな俺の口元を指で優しく抑えると、そのまま、再び何かを呟いた。
「微かな癒し」
瞬間、微かだが白い光が俺の体に流れ込んでくるのを感じた。
「……え?」
そして次の瞬間には俺が感じていた疲労感がまるで嘘のように消え去っていた。
「これでもう大丈夫だ」
そう言いながら、再びおれの額を撫でる。
「目を閉じて。少し眠ると良い」
同時に少しだけ前かがみになったその人のふくよかな胸部が俺の顔に覆いかぶさるように当たって来て――
「うわぁっ!?」
俺は思わず跳ね起きていた。
「あら、少年、どうかしたか? まだ横になっていた方がいいぞ?」
どうもこうも、おっぱいだよ!
おっぱい!
あんたのおっぱいがあたってるからだよ!
などとは言えず、俺はゴニョゴニョと口ごもる。
ジッとなどしていられるわけがない。
膝枕からのおっぱいアイマスクなど童貞には刺激が強すぎるのだ。
だって完全にわざとだろ、あの最後のおっぱいは!
「ま、元気になってなにより……だな」
そう言ってその人はかぶっていたフードを脱いだ。
長い髪が、サラリと舞う。
その人は女性だった。
しかも、めちゃくちゃ美人だ。
肩を隠すくらいの長さで柔らかく揺れる桃色の髪に、人形のように大きくハッキリとした、翡翠のような澄んだ翠眼。
少し垂れ気味の優し気な眉のせいか、表情全体がおっとりとした優しい印象をしている。
小さな口元はどこか子供らしくもある一方で、薄紅色の唇は艶やかに濡れていて、色っぽくもあった。
肌は雪のように白く、染みの一つも見当たらない。
現実離れした風貌だが、不思議と違和感を感じなかった。
そんな俺の視線に気づいているのかいないのか、その人は「おいでおいで」と自らの太ももをポンポンと叩いてアピールしてくる。
(か、かわいい……!!)
……うん。
そ、そうだな。そうだよな。
向こうが「おいで」と言ってるんだから、ここはちょっとだけ休んで行くべき……
いや、そうじゃない。
ちがう。
だめだぞ。
今はそんな事をしている場合じゃないだろう。
「俺はオークに、このエリアのボスに追われているんです! 早く逃げないと……!」
オークは匂いで追ってくる。
仮にこのドームの中が外から見えない空間だとしても油断はできないハズだ。
それを伝えなければ、この人まで危険に巻き込んでしまうことになる。
「あぁ、やっぱりそうだったか。うん、体力を削るほど無理して逃げてたからな。大方そんな事だろうと思った」
「え?」
その人は驚きもせずに言ってのける。
「さっきも言ったろ? 大丈夫だ、ってね。私の不可侵領域の中にいれば姿どころか臭いすら外の世界からは隔絶される。ここにいればオークの奴も追っては来れないぜ」
「……オークを知っているんですか?」
「まぁなー」
「だったら……!」
オークを倒せますか?
俺は無意識のうちにそう聞こうとしていた事に気がついて、思わず身震いした。
ついさっき死を覚悟するほどの窮地に陥ったというのに、この期に及んで俺はまだそんな事を考えているらしい。
俺はそんな性格だっただろうか。
困っている人がいたら放っておけない?
見ず知らずの他人のために自分の命を懸けられる?
そんなにお人よしだった記憶はない。
なのに、なぜ……?
考え始めると気分が悪くなってきた。
脳みそが溶けたり固まったり、ぐちゃぐちゃになるような名状しがたい不快感だ。
「うっ……」
思わず額を抑えようとした手に紙テープが握られていることに気づく。
『死ぬは終わりです。全ては死ぬと終わります』
開いた紙テープにはそう書かれていた。
体力の限界を感じ、俺が死を連想した時、目の前にこの紙テープは現れた。
信じて良いのだろう。
いや、信じるしかないのだろう。
まるでゲームみたいなこの異世界だが、そこに蘇生なんて都合の良いものはないらしい。
死ねば、終わり。
俺も、あの少女も……。
あの少女はまだ無事なのだろうか。
最後に見たのは肛門にぶち込まれる姿だったが、その後のオークは俺にターゲットを切り替えていた。
あれがどういう行為なのか、俺には推測するしかできない。
今もあの少女が生きているという確証はないんだ。
でも、だからと言って見捨てるのか?
このまま見捨てて――
「少年、どうかしたか? 浮かない顔をしているぞ」
いつの間にか女性が間近にあった。
どうやら葛藤が顔に出ていたらしい。
「もしかして回復魔法の効きが悪かったのか? 大丈夫か?」
綺麗な眉をハの字に曲げて、心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでくる。
不意に鼻をかすめた柔らかい香りにドキリとしてしまった。
俺はこの人のおかげで助かった。
この人に助けられたのだ。
そして今も、見ず知らずの俺の事を心配してくれている。
そうだ、この人は、他人であるハズの俺を助けてくれた。
人が人を助けるのに、何か大層な理由がいるわけじゃない。
どういうワケか知らないが、俺はあの少女を助けたい。
そう感じている。
だったら、理由はそれで十分だろう。
「だ、大丈夫です! 体はもうピンピンしてますから!」
「そうか? なら良いのだが……」
それに、死にに行くわけじゃない。
もう一人じゃない。
この人と一緒なら、この人が助けてくれるなら――――
「あ、あの! アナタはあのオークを――」
決意を込めた言葉は、その人の唇によって閉ざされた。
あまりに突然の出来事に、頭の中が真白に染まる。
熱を持った唇が、透明な糸を引きながらゆっくりと離れる。
目の前で、その人の真っ赤な舌がそれを舐めとった。
「体の方が治ったなら、次は心の方だな」
「……へ?」
白い手が俺の太ももからゆっくりと這い上がってきて……
(こ、この人もしかして――)
「気持ちが良くなる事、してやるぜ?」
痴女だーーーー!!