4、逃走中
オークはまだ俺を探し回っているらしい。
ただの棒とは言え、俺にとっては大事な唯一の武器を失ってしまい、これからの行動に頭を悩ませていると、ドスドスと重たい足音が聞こえてきた。
とっさに俺は息を潜めた。
足音でそれがあのオークだとすぐにわかった。
ただ、一度は姿の見えない場所まで離れている。
そう簡単には見つからないだろうと、その場でジッと気配を殺すように体を丸める。
ドスドス……
(頼む、そのまま通りすぎてくれよ……)
ドスドスドスドス……
(…………ん?)
ドスドスドスドスドスドスドスドス……!
(あれ、なんか足音が妙に正確に近づいてきてる気が……)
「ブホオオオオオ!!」
「うおぉぉぉぉぉ!?」
なんと速攻でバレた。
「マジかよ!? なんでだ!?」
完全に見失ったハズなのに何で追ってこれる?
足音を聞く限り、迷っている様子はなかった。
オークは最短距離で真っ直ぐに俺の元へ来た。
とても偶然には思えない。
なぜだ?
俺は逃げながら、オークのフンフンと荒い鼻息を思い出した。
そういえば、俺に気が付くまではあんなに鼻息は荒くなかった気がする。
「もしかして、匂いか!?」
なるほど、それなら納得だ。
豚の嗅覚は、アレだ、めちゃくちゃ鋭い。
人間の何倍かとかは知らないが、人間には見つけられないものを見つけたりするハズだから鋭いに違いない。
オークは俺の匂いを覚えて追ってきている。
逃げられても逃げられても追いかけて、そうやってあの少女もやられたのかも知れない。
俺とオークの立ち位置の関係で、最初に見た時にはオークの右側だけしか俺には見えていなかった。
今、俺を追って正面を向いている奴の左半身には、大きな火傷の跡が残っている。
丁度、左目の辺りを中心に、ブスブスと肌が焼けただれ、薄い体毛がコゲて縮れているのが見て取れる。
どうやらまだ新しい傷のようだ。
もしかしたら、あの少女が与えた傷なのだろうか。
だったら、あの少女は魔法使いか何かなのだろうか。
などと思考を巡らせていると、目の前に小さな人影が飛び出してきた。
それは、見覚えのある緑色の体躯をしていて……
「ゴブリンか! チィッ!」
今は構っている場合ではない。
振り上げてきた爪をかわし、そのまま駆け抜ける。
「悪いな、今はお前らに構ってる場合じゃないんでな……って足はやっ!?」
格好つけてスルーしようとして捨て台詞と共に振り返ると、思いっきり俺の速度に付いてきているゴブリンの姿があった。
爪を振り上げたまま「ゴパー!」と楽し気に叫んでいる。
「マジかよ!? これじゃヤバイぞ……!」
まずはオークと距離を取り、どこかでこのゴブリンだけ殴り殺すしかない。
まだ素手の攻撃が通用するのかも確認できていないが、そうするほかに成す術がなかった。
このまま全力疾走で逃げ続けるのには体力的に無理がある。
「よし、だいぶ離れてきたな……!」
オークの足音が遠くなり、振り返ればそこにはゴブリンの姿だけがあった。
「へっ、待たせたな! これでもくらえ!」
俺は足を止め、ひらりとゴブリンのひっかきを避ける。
その勢いのまま、ゴブリンの顔面に拳を叩き込んだ。
「ゴパー!」
ゴブリンが悲鳴を上げて後ずさる。
そして、何事もなかったかのように再び爪を振り上げた。
なんという事でしょう。
まるで効いていないではないか!
「えぇい、それなら……!」
一撃でダメならと二発三発と拳を叩きこむ。
華麗に敵の攻撃を避けながら的確に反撃し、俺の気分はプロボクサーなのだが、はたから見れば子供のケンカにしか見えないだろう。
「良い加減に倒れろっての!」
「ゴパー!」
ギャーギャーと終わらない子供のケンカを続けていると、オークの足音が迫ってきた。
「くそ! 逃げないと……」
ゴブリンを無視して再び逃げるが、やはりゴブリンは追ってくる。
あれだけ殴ったのだから少しは足に効いていても良いと思うのだが、ゴブリンは元気だった。
むしろ俺の体力の方が危険だった。
効かないのなら下手に攻撃せず、体力の温存に努めるべきだったと後悔するくらい、体は悲鳴を上げている。
足がもつれる。
ヤバイ。
マジで体力の限界が近いらしい。
走っているだけで、貧血になりかけた時みたいに頭がクラクラする。
ここで倒れたらどうなるのだろう。
ゴブリンの爪はまだ一度も受けたことがない。
もしも受けたら、どれくらい痛いのだろう。
死んだりするのだろうか。
その時、再び紙テープが目の前に舞い落ちてきた。
俺はそれを掴もうと手を伸ばし、そのまま倒れそうになる。
(ダメだ……もう、限界……)
「おい、少年! こっちだ!」
途切れかけた意識を繋いでくれたのは、誰かの声だった。
凛とした力強い声が、どこからか俺を呼んでいる。
顔を上げると、少しだけ遠くにその姿があった。
人間だ。
それも下着姿ではない、布のローブのようなまともな格好をした人間。
つまりは俺よりも強い、この世界では先輩にあたる部類の人間。
助かる。
あの人の所まで行ければ……!
「おいで!」
その声に導かれるまま、俺は最後の力を振り絞って駆けた。
あと、三歩。
あと、二歩。
あと、一歩――
そこで俺の体は傾いていく。
もう、足が動かない。
その俺の体を人影の腕が力強く引き寄せた。
布ごしに柔らかい何かが俺の顔を包む。
柔らかいミルクのような優しい香りがした気がした。
「良し、よくやった! もう大丈夫だ」
そう言ってその人は優しく俺の頭を撫でて、同時に手にしていた杖の先端で地面を叩いた。
「不可侵領域」
見えない何かが、俺たちの周囲を包み込んだ。